「いまさら翼といわれても」/米澤穂信

6年5か月ぶりの〈古典部〉シリーズ新作。
そもそも私はアニメ「氷菓」がきっかけで米澤穂信さんの作品に興味を持ち、アニメを見終わってから氷菓の原作である〈古典部〉シリーズと、同じく高校生が主人公の〈小市民〉シリーズを読んで夢中になったので、つまりこの『いまさら翼といわれても』が、初めてリアルタイム(?)で読める〈古典部〉新作ということになります。

いまさら翼といわれても

いまさら翼といわれても

この本には、奉太郎視点が4本、摩耶花視点が2本で計6本の短編が収録されている。
そのうち1本を読み始めたとき、不思議なことに「この風景には見覚えがある」と感じた。メインキャラクターだけでなく、教壇に立つ先生の様子にまで既視感がある。出たばかりの本でそんなことってあるのかな? と奥付をみると、その1本だけ2008年に書かれたものだとわかった。
つまりその作品だけ、単行本に収録されるより前にアニメ「氷菓」でアニメ化されていたのだ。
――なるほどね、と解決するまで数分程度のことだったのだけど、そのような「違和感」を解決することにわくわくする感覚は、高校生を主人公に描かれる〈古典部〉と〈小市民〉シリーズの魅力にも通じているように思った。

もちろん、その私の違和感は謎でも何でもない、ただの記憶の劣化だ。
でも「まあいいか」で見過ごしてしまいそうな出来事という意味ではこのシリーズで描かれる謎と似ていて、
そのような「まあいいか」に立ち止まり、その背景を紐解いていく過程に登場人物たちの思春期ならではの心情が絡むというところが、〈古典部〉と〈小市民〉シリーズの、青春小説としても推理小説としても、魅力的なポイントだと思う。

特に好きだったのは摩耶花視点で描かれる、『クドリャフカの順番』の後日談ともいえる「わたしたちの伝説の一冊」。
漫画家を目指す摩耶花が漫画部の内輪もめに巻き込まれている最中に起こるある出来事の謎を解く話なのだけど、

友達も仲間も振り捨てて、本当に頼りになるのかわからない自分の才能に仕えるには、とてもこわいです。
p215

この台詞が出てくる箇所の一連のやりとりは、何かを好きで、続けていて、でも好きだけでは終わりたくない、という岐路に立ったことのある人にはきっと響く場面だと感じた。
学校という社会は小さい。でもその中にいる間はその小ささに気付かない。
けれどこのやりとりは「見ててくれる人はいた」という希望でもある。そのことにいつか摩耶花は気づくのだろう。

そのほかの短編では、特に奉太郎とえるの距離感が縮まっていることが印象的で、「翼」の話も含め、まだまだこのシリーズの続きを読んでいたい、と思う1冊でした。面白かった。

 面倒日記

思えば引越しをするときも、ちょっといい(私にしては)自転車を買うときも、私は周囲の友だちにしつこいくらい「引越しがしたい」「自転車が欲しい」といい続けていた。
何か慣れないことをしようとするときは、そんな風に「宣言」して引っ込む場所をなくしてしまわないとなかなか腰が上がらないタイプで、我ながら面倒な性格だなと思うけれど、ここまできたらそういう癖をうまく使う方法を考えた方がきっといい。

そんなわけで、長らくやりたいなと思ってやっていなかったことを、年の瀬の勢いでやってしまいたいなと思いました。

この日記は10年以上、自分の好きなものについて分け隔てなく書く場所にしたいと思って続けてきて、それでいいと思っていたのですが、最近はそれが書くことの抵抗になっているような気もして、
なのでちょっとこの辺で、少し内容を分割してみようかなと思っています。
基本的には漫画のことだけ別の場所で書いて、ここはもうちょっと気軽に日記を書くところにしてくつもり。

たったそれだけのことをわざわざ宣言しないと落ち着かない、という面倒くさい日記でした。
来年はもっとまめに日記を書きたいなー。

というわけで漫画日記はこちら→http://ichinics.hateblo.jp/

この世界の片隅に

監督:片渕須直


原作も素晴らしかったけれど、その印象をこれ以上ないほど丁寧にアニメという表現で再現してみせてくれた、これもまた素晴らしい映画でした。
こわい場面もたくさんあったけれど、映画を見終わった瞬間、私の中に残っていたのは「生活をしよう」という決意であり、劇場を出た後、エレベーターに乗り合わせた人に「良い映画でしたねえ」なんて、つい声をかけたくなった。
あまり先入観を持って見に行かない方が良いとも思うので(あまりに良い良い言われると、ちょっと斜に構えてしまうということは私にも覚えがあるし)、おすすめです、と言うに留める。

ここから先は、生活の話。

歴史を描いた物語の登場人物は、ほとんど場合が歴史に名を残した人物であり、例えば「戦争」については多くの記録が残っていても、それに巻き込まれた人々の物語は、語られなければ忘れられていく。忘れられていくことが悪だというわけではないのだけど、ただその世界を思い描くときに、「自分」の身の置き場がないなと、子どもの頃よく思っていた。
だから、この原作を読んだときにまず感じたのは、これは自分たちの物語だということだった。つまり、街灯り1つひとつのしたにある生活の話だ。
何年か前、母方の「地元」である鳥取と、父方の「地元」である広島を妹と旅行したことがある。特にルーツ巡りとかを意識したものではなかったのだけど、父方母方それぞれの名字の表札をたくさん見かけたのは面白かったし、その後、親戚と会話する際のいいネタになった(久しぶりに会う親戚との会話というのはなかなか難しい)。
当たり前のことだけれど、そこには自分の知らない大勢の人が住んでいるのだということを知るのは、なんだか心強い。それは、こうの史代さんの描く風景のどこかにはきっとこの時代の私もいて、それなりに毎日を楽しく過ごしているはずだと感じたことに似ている。
どんなに深刻な状況があったとしても、人はその中に救いを見つけるし、まともであろうという支えを探す。それが生活するということだろう。
生活をしていない人などいない。
大家族も、一人で暮らす人も、家事をする人も、料理をしない人も、洗濯は全部クリーニング店に頼む人も、悲しいことがあった人も、お祝いの日も、それぞれに軟着陸すべき日常を持っているはずだ。
それを奪う権利は誰にもないし、生活をより丁寧に心地よく行おうとすることこそが、抗う方法であり、人の支えになるのだと思う映画だった。

原作を読んだときに「ひとつひとつのコマがまるで記憶のように描かれている。場を写し取るのじゃなく、気持ちごと画になっているみたいだ。」と書いたけれど、映画の印象もその通りだと思った。ぜひぜひ、劇場で見る事をおすすめしたい映画ですし、原作未読の方にはあわせて原作もおすすめしたいです。

ichinics.hatenadiary.com
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生活

自分は自分の人生のある側面について鈍感なのかもしれないと思うことがある。
働いて、食べて、眠る。それ以外はほとんど楽しいと好きを優先して動いていて、毎日まあまあ、幸せだと思う。もうちょっとこうなったらいいな、こうできるようにしたいなと思うことは多々あれど、きっとそのくらいでちょうどいい。

私が深刻でないことについて、たまに、なんでそんなにのんきなのと言われることがある。もっと悩むべきではないのか。年を取るということについて、一人でいるということについて。
そうなのかもしれない、と思う。
いつか、ものすごい後悔をすることがあるのかもしれないとも想像する。

ただ、否応無さというのは時々、唐突に訪れるもので、
あり得たはずのものについて想像してもきりがないし、自分は自分が選んできたものでできている。
永い言い訳」を見て思ったのはそんなことだった。

新宿TOHOに行った後は、歌舞伎町の出口にある横断歩道を渡るのがすごく億劫で、でもちょっと好きだ。信号が変わったとたんに入り乱れる人の群れから拭われたいと思う。ただ、ぶつからずに歩くのは至難の業とも思える数メートルで、ちらりと見る西新宿の空は広い。
いくつもの映画の余韻で上書きされる、この風景が私にとっての東京だ。
10年前は執着できなくなっていく自分を思い、10年後の今はそれはほんの一面だと知っている。
人には向き不向きがあり、居心地よく生活するためには、自分に向いた価値観を応用するのが近道だ。
足りないものはずっとある。今はそれでいいし、10年後の私は何を特別に思うのか、少し興味もある。

 永い言い訳

小説家の男が、妻の死をきっかけにある父子と出会うお話。
先日会った友人に、絶対見た方がいいよ、と背中を押されて見に行ってきた。
夜にご飯の約束が入っている日の昼間に油断した気持ちで見に行ったのだけど、開始早々、気持ちの隙間のような部分にサックリ刺さってしまって、上映中はずっと涙が出て仕方なかった。
泣いた後に町を歩くと、なんだかフワフワした寄る辺ない気持ちになる。何度も道順を確認しながら、呆然とした気持ちのまま、おいしいご飯を食べにいった。

これはひとごとじゃない、と思った登場人物は2人いて、それは妻を亡くした主人公の幸夫と、同じく妻を亡くしたトラック運転手大宮の長男、真平くんだ。

幸夫は、かなり嫌な奴だと思う。疑り深くて、プライドが高くて、自分を守ることに精一杯で他者の痛みに鈍感。
妻を亡くした後もずっと「妻を亡くした男の振る舞い」を模索しているような表情をしている。小説家なので言葉はたくさん出てくるんだけれど、その言葉に感情は伴っていない。
ただ、彼自身が思い描く「正しい振る舞い」ができるわけではない、という程度に幸夫は正直者というか偽れない人でもある。

物語では、そんな幸夫が妻の友人(同じ事故で亡くなった)の子どもの面倒をみるようになる。
これは「親切な振る舞いをしたい」ということでもあったのだと思うけど、たぶん、幸夫にとって子どもとの関わりは「よく見られたい」という焦燥から解放される瞬間だったのではないだろうか。

真平くんは小学生ながらにとてもしっかりしていて、まだ幼い妹の面倒をよく見ている。
真平くんの、長男であるがゆえの責任感と、責任感が空回りして自ら辛くなってしまう感覚は、自分も4人きょうだいの長女なので身につまされるところが多々あった。
頑張っていることを褒めて欲しいんだけど、よく言えば豪快、悪くいえば繊細さに欠ける父親は彼の努力には気づかず、褒めてくれるお母さんは亡くなってしまった。

幸夫と真平は、プライドが高くて、自分の殻に閉じこもりがちという意味で近しくて、だから他者の気持ちに鈍感な幸夫も真平の心には寄り添うことができたのだと思う。
そして、大宮家に必要とされるうちに、幸夫はそのいびつさを見て見ぬ振りしつつ、そこを自分の居場所だと考えるようになる。
その居場所が奪われそうになった瞬間、子ども相手にかつて妻にぶつけていたような嫌味を口走ってしまう幸夫は、とっても子どもじみた態度でみっともないんだけど、切実で、深く身にしみて愛おしく思えた。

守るものがあると弱くなる。
私はそう思っているし、たぶん主人公もそう思っているような気がする。
それでも、主人公が最後に辿り着いた結論には、弱くなることを補ってあまりある何かを手に入れた確信があった。

使い古されたノート、一人で洗濯物をたたんでいる瞬間の、テレビの音。だんだんと登れるようになっていく坂道。
見た後も、積み重ねた幾つもの光景が甦ってくる映画だったし、映画を見終わった今も、幾つものシーンを思い出して涙ぐむことがある。
幸夫が、亡くした人のことを大切に思っていたのかという点について、私は「いいえ」だと思う。大宮家についてもあの家に通っているくらいがちょうどよく、もしあそこに住んでいたのだとしたらうまくいかない人なんじゃないかとも思う。人はそう簡単には変われない。
ただ、今の自分だったら大切にできたとは思っているのだろう。
そう思えるまでの、永いリハビリのような物語だった。
素晴らしかったです。

まだ小説版を読んでいないのだけど、読んだあとに答え合わせをしたいので、先に感想を書いておく。