特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技

庵野秀明が館長を務める「特撮博物館」を見に、東京都現代美術館へ行ってきました。
館内は、日本の特撮映画やTVシリーズに登場したミニチュアなどの展示を通してその歴史を振り返りつつ、レポートとして「巨神兵東京に現わる」というひとつの特撮映画とその制作過程をあわせて展示する、というような構成になっていました。
巨神兵東京に現わる」は、ナウシカに登場するあの巨神兵を描いた短編映画で、CGは使わず、すべて特撮技術を使って制作された映画です。
そして上映会場の次に、その制作ドキュメンタリーが流れている部屋があるのですが、このメイキングがほんとうに素晴らしかった! 熱光線で溶けたビル壁面を描くための試行錯誤、キノコ雲を「作る」工夫、人力で動かす巨神兵へのこだわり。特にすごかったのはビルの爆破シーンで、2つの手法が解説されるのですが、どちらも全く違う壊れ方をするんですよね。その背景にある繊細な仕掛けと、撮影後に再生したときの満足げなスタッフの表情がたまりませんでした。それからさすがにこれはアニメーションかCGだろうと思っていた「予兆」も特撮だったのかと驚き、「そうあるもの」として見ている映像の背景には、「そう見せる」ためのいくつもの工夫があるのだということを思い知らされた気がしました。
樋口真嗣監督を初めとして、すべてのスタッフが、やりたいことを思う存分やっている感じが、その表情やふともらす「これだよなぁ」というつぶやきにあらわれていて、なんかもう「オネアミスの翼」みたいだった。あと常に迷彩服着てる人はパトレイバーのおやっさんににてた。見てる私も、周りの人も、つい「おおー」って声が漏れたり笑ったりしてた。
そして、このメイキングを見ることで、そこに展示されている全てのものが、意味をもった「仕掛け」であることがやっと分かった気がしました。特撮の魅力って、こういうことなのか、って、説明してくれた気がします。さらに、そういった創意工夫のもとにうまれたミニチュアたちを保存する場をどうにか作れないかという考えからスタートしたこの展示が、その技術を受け継ぐ場としても生かされて欲しいという願いも感じました。

最後の部屋には町のミニチュアが2種類あって撮影できるようになってるんですけど、これも、上からみて町の配置になっているのが大事なんじゃなくて、奥行きがあるように“見せる”配置なんだなーっていうのがわかるのが面白かった。
すごく楽しい展示でした。
これから行かれる方はぜひ、メイキング映像を見てください…!

人が巨大で楽しい


細かいところも凝ってる

どーん

ちなみに「巨神兵東京に現わる」には「言語」のスタッフで舞城王太郎が参加していたのも面白いなと思いました。

アニメは全部つくりものなので、最初から記号で構成されている世界です。どんなに現実的なものをそこに入れ込もうとも、やはり最初から作られた世界なんです。全てが人のイメージで構成することができる「実際にはない世界」で現実ではない。その現実感のあまりないところで、いろいろな表現が自由自在にできるというのがアニメのいいところなんですね。特撮のいいところは、現実感の中にそういった「現実にはないイメージ」を紛れ込ませることができるというところです。現実を切り取った空間の中に、現実ではないものを融合させられるんですね。
「ルーツとしての特撮、原点としてのウルトラマン庵野秀明/「熱風」2012、7月号

 これも自分と認めざるをえない展

佐藤雅彦さんがディレクションをした『これも自分と認めざるをえない展』(http://www.2121designsight.jp/id/index.html)に行ってきました。
展覧会は「属性」というテーマで

  1. その本体が備えている固有の性質・特徴
  2. それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質

という「属性」の2つの側面について、体験型の展示を通し様々な視点から見せてくれるものでした。
ここで思い出したのは、以前読んだ高田明典さんの本に出てきた

「無根拠に、それを疑わないと決めた」ことを「超越確実性言明」と呼びます。超越確実性言明はたくさんありますが、その「束」こそが「自我」です。」
http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20061014/p1

という言葉のことで、この言葉についてはいまだにちょっとよくわからないままなのだけど、この展示によって示されるのは、そのような「無根拠にそれを疑わないと決めたことの束」と「私」を切り離して眺める作業のような気もした。
ただ、2の「それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質」として取り上げられていたものについては、「記憶」だけが特殊すぎるとも感じた。具体的な展示内容については知らないで見たほうが面白いと思うので触れないけれど、
例えば、食べたことのないお菓子を「食べたことがある」という嘘をついたとする。最初は違和感のあるその「嘘」も、つき続けることで「食べたことがあると信じている自分」の方がリアルに感じられることはあるだろう。そんな風に、「記憶」というのは「私」を構成する重要な要素ではあるけれど、その正確さについては、それほど重要ではないように思う。
むしろ、あの記憶についての展示は、その曖昧さを示すものだったのかもしれないけれど、
もしできるなら「存在そのものも否定されてしまうような」形で、記憶というものが切り離されるところを見てみたいなあとも思ったりした。ちょっとこわいけど。

そんな風に、体験して感じたことについてあれこれ考えるのがとても楽しい展示でした。
それから、体験した後に解説文を読むのがとても楽しく、ここで扱われている「属性」について、佐藤雅彦さんが考えていることをもっと知りたいとも思いました。楽しかったです。

 なつやすみ

仕事がお昼で終わった日、思い立って野中ユリさんの個展へ行った。初めて行くギャラリーだったのだけど、思いつきでも携帯があればすぐ会場が調べられるというのは、本当に便利だ。
会場である「LIBRAIRIE6/シス書店」*1では、野中ユリさんの作品だけでなく、常設展示をやっているといういろいろな人の作品を丁寧に解説していただいて、とても楽しかった。特に山本昌男さん*2という方の写真がとても素敵で、消え入りそうな鳥の写真と、発光しているかのような水溜りの写真が気に入って、他の作品もあればぜひ見てみたいなと思った。
ギャラリーを出ると真昼の強い光がわっと押し寄せてきて、なんだか先ほどまでの時間が夢のような気がした。

日曜日も昼過ぎまで仕事。仕事として、やれることとやりたいことの折り合う点がかすかに見えたような気がして、すこし早足になった。
夜の待ち合わせまで時間があったので、行きたかった「ブリューゲル版画の世界展」*3を見にいった。目当ては有名な「バベルの塔」だったのだけど、これは油絵のものしか見たことがなかったので、細かい線が良く見えるのが新鮮だった。会場ではブリューゲルと同・次世代の画家の作品も同時に展示されていたのだけど、今回のポスターにも使われている絵のようなユニークさがあるのはブリューゲルの作品だけといってもよかったと思う。画面のあちこちに書き込まれたキャラクターには、アニメーションぽい動きがあって、見ていてとても面白かった。

夜、友だちとあって近況を報告しあって帰宅。そして今日から夏休み。

 鳥取旅行その6/植田正治写真美術館


そして鳥取旅行のお目当てその3は、植田正治写真美術館に行くことでした。
前日の夜、携帯の時刻表で調べてみると、米子から美術館のある岸本駅までの電車は、2、3時間に1本くらいしかないらしく、ならば朝いちでと8時台の電車にのって向かう。車内にはバッタも乗ってたりして、なかなかにのどか。そして着いた駅はさらにのどか。駅からの眺めは緑!
駅を出でも案内らしきものは特になかったので、すぐそばにあった車庫にとまってたタクシーにのせてもらおうと事務所を訪ねる。すると、畳の部屋で寝ていた運転手さんが起きてきて、車をだしてくれた。
暑いけど大丈夫か、松江にはいったか、美術館は建物がきれいなのでぐるりとまわるといい。など、いろいろ話してくれる。後から、方言がさっぱりわからなかった、なんで相づちうてるの? と連れが不思議そうにしていたが、不思議と耳に馴染んだのは、祖父祖母の言葉のせいか、鳥取に来て3日めだからか、よくわからなかった。なんとなくの会話。車ではほんの数分の道だけれど、やはり歩けば一時間はかかるだろう。帰りにもきてもらおうと思い、電話番号をもらってからおりる。
そして入館。
事前に展覧会情報を調べていかなかったせいもあるのだけど、その日やっていた展示が植田正治さんの作品中心の展示ではなく、植田さんと縁の深い(ということもよく知らなかった)、福山雅治さんの特集だったのには、ちょっとがっかりしてしまった。福山さんのことはあまり知らないし、植田さんの写真を鳥取で見る、ってことにわりと意気込んでいたので、3つの展示室のうち2つも(うち1つは福山さんが写される側である複数の写真家の展示だった)私にとってはあまり興味のないものであるというのは、なんだかちょっとかなしかった。
ただ、福山さんが植田さんのファンだというのは聞いたことがあったけど、植田さんの弟子入(?)りした写真家でもある、というのは知らなかったので、新鮮な気持ちもありました。それに、福山雅治さんの作品にも、いくつか、惹かれたものがあって、特に植田正治さんをうつした写真など、その関係性が伝わってくるようで印象にのこった。ただ、ヨーロッパ(?)で撮影された作品が並んでいたあたりで、そのモチーフの選びかたや、視線の感覚というのが、どうも私の好みではなく、それはどこか、私が植田さんの写真に感じていることと、他の人が植田さんの写真に感じることが違うのだなということを思い出させてくれた。

うーん、なんて落ち込んでいたのですが、最後の植田さんの写真展示室にあった、植田正治さんの娘さんである植田カコさんの作文を読んで、そのちょっとつまらない気持ちはすっかりなくなった。

「サァ行こう」とパパがせんとうになって、しゅっぱつしました。
とちゅうであう人が、みんな同じように「今日は何ごとですかね」とおっしゃいます。そのたびにパパは「これです。これです。」といって、ローライしゃしんきをふりまわしてみせています。
(略)
早くうつせばいいのになあ、とおもいますが、パパが聲をかけません。トッちんが、じっとしていないので、パパはやがて、いつものコグマとキツネのおはなしを、はなしだしましたので、みんなが、笑いだしてしまいました。
(略)
それから二三日だって、学校からかえってみると、もうあの時のしゃしんが出来ていました。
私はまぶしそうなかおをして、立っていますので、はづかしいとおもいましたが、もう、しかたがありません。
パパとママは、「おもしろい」「おもしろい」とはなしていますので、私もそうかなあとおもいました。

これは、あの印象的な家族写真「パパとママとコドモたち」(一番上にのせた写真)の撮影について書かれたものだ。この作文を読んでから、ふたたび写真を見てみると、まるでその中の人々がいまにも笑いだしそうに思える。そして、このカコさんの言葉の中からも、植田さんが写真をとることをとても楽しまれていたことが伝わってきて、それはとてもしあわせな、写真なんだなと思った。
 美術館のある駅
 美術館外壁
 後ろを向くとこんな
 米子駅から乗り込んできたバッタ
 そして花回廊へむかいました!

 梅佳代展「男子」

すごく暑い日で、でもうきうきしながら、原宿駅からえんえんあるく。暑いのは苦手だけど、なんだかちょっと酔っぱらったような気分で会場に入って、ほうほうなんて眺めながら、ふと聞こえてくる会話の音。
あれは、撮影している現場の音声だったんだろうか? 子どもが話しかけている。「ぼくカブトムシが大好きなんだよね」みたいなことを、いきせききってしゃべっている。この会話が、これら愉快な写真の奥にあるのだろうか。なんてことを考えていると、写真たちがいっせいにしゃべり出すような気が、する。なあなあなあ。この饒舌さというのが、梅佳代さんの写真の魅力の一端であり、同時に「うめめ」との違いなのではないか、とか思う。
「うめめ」に見えたのは、ほとんど奇跡的な偶然みたいなものだったけれど、「男子」の男子たちは、たぶん「のせられて」いる。たぶん、演技し、演技しきれてないその合間に、この面白さがある、という発見のもとに、意図してとられているのだと思う。たぶん、ポートレイトってそういうものなのかもしれないけど…。どうかな。
奥まった場所では、梅佳代さんが、かつての男子たちを探してあるく模様を撮影したVTRが流れていた。そして私は、大阪の男子たちのノリのよさにすっかり感動して、ああ、この写真集については、この場でなければあり得なかったことなのだなと思う。それもまたひとつの奇跡なのだけど、大きくなって、少しばかり恥じらいを見せつつも、ちゃんと期待に応えて、のっかってくあの男子たちの姿に感動し、勝手にあこがれた。
http://www.littlemore.co.jp/chika.html

男子

男子