東京物語/小津安二郎

ichinics2006-02-01
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1953年の作品。
私が初めて小津監督の映画を見たのは、中学生の頃だっただろうか。なんだか静かな映画だなぁと思ったのを覚えている。その次が大学の授業で見た、サイレントの「生まれてはみたけれど」だった。「東京物語」もその頃に見た。
でも、当時は正直、あまりにも整然とした画面に退屈もしたし、物語はほとんど印象に残らなかった。たぶん、私の好きな監督の多くが小津監督を敬愛しているという知識だけが先行していたので、その映画そのものを見ようとしていなかったのかもしれない。それから暫く、遠ざかっていたのだけど、でも、昨年末にカウリスマキ映画をまとめて見よう、と思い立って見ているうちに、(結局4本しか見ていないけれど)だんだんともう一度、ちゃんと小津作品を見たいなと思うようになった。

それで見た「東京物語」は、今さらながら、とても良い映画だった。
物語は、子どもたちに会いに東京へ行く、老夫婦の物語だ。主役の笠智衆さんは、当時40代でこの(70代という設定の)役を演じたそうだけど、まるで違和感が無い。そして、昔は棒読みに聞こえた台詞も、物語を妨げることなく、物語を流転させてゆく。方丈記「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」という言葉を彷佛とさせる、そんな時間の流れが映画の中にある。
老夫婦には、五人の子どもがいる。東京に住む、町医者の長男と美容師をしている長女は、老夫婦を型通りにもてなしはするが、自分の生活をずらそうとはしない。ただ、戦死した次男の妻であった紀子(原節子)のみが、彼等の来訪を心から喜び、もてなしている。ように見える。それでも、息子も娘も、別に悪気はないのだ。
そして「これ以上迷惑はかけられないよ」と言い、尾道へ帰ろうとする老夫婦は、「幸せだよ」「いいほうだよ」と繰り返し言い合う。決して面と向かって文句を言ったりはしないのだ。
紀子もまた、母の死に対面しても、すぐに現実へと切り替えてしまう兄と姉に憤る次女に向かって「皆、自分の生活の方が大事なの、そうなっていくのよ」と語る。そして、それがまた自戒の言葉へとつながるんだけれども。
直接的な言葉にはされなくても、そこにある感情が伝わってくる、というのは映画の不思議なところだと思う。現実ではこうはいかない。たぶん、あの姉だって、自分の妹があのように感じていることなど、たとえ察したとしても、気にはしないだろう。相手の物差しを推し量るというのは、近しい間柄になればこそ、難しくなるのかもしれない。
それなのに、こうして画面を隔てて相対する世界の、なんと近しいことだろう。
昔、この映画を見た私と、今の私が感じることがこんなにも違っているように、すべては変わっていくし、自分の中にある感情すらも、繋ぎ止めることは難しい。でも、それが世界だ。いいこともあった。いやなこともあった。誰かと、分かち合う事のできる何かだって、たぶん、ある。

父が広島出身で、私自身も一人欠けた四人兄弟の長女で、そしてたぶん、私自身が年をとったせいか、ひどく身につまされる思いのする映画だった。
例えば広島に住んでいた祖父が亡くなった時、私はまだ小学校にあがったばかりで、お葬式の席で、正座するのが辛いと思いつつ、父親の顔を見るのが怖かった。そんなことを思い出した。

 bonobos/electlyric

electlyric

electlyric

聴いた。良かった。きらきらしてます。日だまりというか、真夏のプールの中から空を見上げてる感じがする、とても良いアルバムでした。なんだーもう。なんだか先日ごちゃごちゃ書いたのがあほらしくなってくる。
この前は多幸感溢れるダンスミュージック、と書いたけれど、それは訂正。やっぱり彼等の基本は南国の音楽にあるみたいですね。ラブ&ピース。ただ、「ホーバー・ホーバー」で感じた、あちこちのジャンルを行き交う、ちょっと落ち着かない感じは薄れて、とてもまとまりのある、芯の通ったアルバムだと感じました。もちろん「ホーバー・ホーバー」も良かったんだけど。でも単純にこのアルバムの方が、好きで、bonobosというバンドがどんなバンドなのか、伝わってくるような気がした。
そして、おこがましいことを言うならば、バンドが一段ステップをのぼるときっていうのは、やっぱりキラーチューンを生み出した瞬間だと思うんですよ。そしてこのアルバムには、それがある。たぶんきっと、このアルバム聴いた(ほとんどの)人が一発で「おっ」と身を乗り出してしまうであろう曲。「THANK YOU FOR THE MUSIC」! 聞き込むうちに、あ、こっちの曲のが好みかも、なんてことはあるだろうけど、このキャッチーさはちょっと特筆すべきだと思う。「We Will Rock You」と凄く似てるリズムなんだけど、雰囲気がまるで違って、これは久々の個人的エンドロールソング*1を発見してしまったと思いました。
他には#1「春の嵐」#7「あの言葉、あの光」などが好きです。

*1:映画のエンドロールでかかるような音楽が私は好きなので

 なんか変

「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも 私たちは信じている、言葉のチカラを。 ジャーナリスト宣言朝日新聞
こんなコピーにメッセージを託しました。ペンを握り、言葉を組み合わせ、文をつむぎ出し、真実を伝え続ける。きっと何かが変えられる。そんな思いを込めています。(01/25)

朝日新聞の、キャッチコピー、らしいんだけど、なんだか居心地の悪い文だと思う。
まず、揚げ足取りみたいだけど、ここで「力」を「チカラ」とする意味はなんだろう?
「言葉は感情的で、残酷で」と「無力だ」の間に「ときに」と入れるということは、言葉は常に(とりあえず「ときに」ではなく)「感情的で、残酷」であるというニュアンスを含む(誤解を招く)んじゃないだろうか?
コピーの趣旨は、たぶん「言葉はときに、感情的であったり、残酷であったり、無力であったりする」ということに近いんだろうなというのはわかる。でも、「感情的」や「残酷」は「無力」というよりは「暴力」に近いイメージを、私は持っている。たとえ私のその感覚が極端だとしても、「感情的であり残酷であること」がイコール無力であるとは思えないし、それはたぶんこのコピーの趣旨には含まれていないだろう。
しかし、その後に「それでも、私たちは信じている、言葉のチカラを」と繋げるのであれば、それは「無力」に掛かっているんだろう。「感情的で残酷」であることを「信じている」ってのは、趣旨を推し量るとおかしい気がするし。そうなってくると、やはり「感情的で、残酷で」と「無力だ」の間の「ときに」は両者を分つものだと感じられる。
すると、「感情的で残酷であること」に対抗する「言葉のチカラ」というニュアンスである可能性が高いけど、言葉が「感情的で残酷である」としている上で、「信じている」と言われても、なんかそれって既に信じてないのでは、と感じてしまう。で、以上のことを総合して考えると、この文の趣旨は以下のようなことだと思う。
「感情的な言葉は、時に残酷で、その残酷さに、無力さを感じてしまう事もあるけれど、それでも私は信じたい。言葉の力を。(きっとあなたに何か伝えられると思うから!)」
うーん、でもこれだと、言葉が残酷であるのは「感情的」な時だけみたいになるな。というか、そもそも新聞社が「感情的」であってはいけないんじゃないかって気がするんだけど…。そういう自戒なのかな? だとすると、「感情的な言葉や、残酷な言葉に触れて、信じられないと思う事があるかもしれないけれど、私たちは常に冷静な視点を保ち、適切な言葉を選んで、あなたの感じている無力さを払拭できるような、力のある言葉を追い求めて行く事を誓います」なんていう趣旨なのかな。なんかだんだん混乱してきた。
でも、ここではあまり良い意味合いでは使われていないと思われる「感情的」ということばだって「情感溢れる」とかけば、なんだか美徳のように聞こえる。
 *
それから、私たちって、自分たちのことなんだろうけど、言葉を発信する側が「信じている」と自己完結してていいんだろうか?「信じて欲しい/信じてもらえるよう努力したい」ではないのが、なんとも歯がゆい。
さらに、「ペンを握り、言葉を組み合わせ、文をつむぎ出し」という言葉から、私が連想するのは、フィクションだ。「真実を伝え続ける」という意志を伝えたいのであれば、言葉で表現する方法を模索するよりも、取材して、考えて、ということが重要なんじゃないだろうか? もちろん、誤解を招かないように言葉を選ぶことも大事だけど。
そして「きっと何かが変えられる」って、どういう意味なんだろう。変えなければならない「何か」があるとして、それを「変える」のが「自分たち」だという自負だとしたら、それが「何」なのか、全ての人が共通認識として持っていると考えているんだろうか?
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日本語って難しい。