思うところ

今日はいろいろと、考えることの多い一日だった。
ネットワークというものが発達して、いろんな情報が瞬時に国中に、やがて世界中に伝わる様な世の中にあなって、たくさん嬉しいことや楽しいことを知ることができるのと同じくらいに、哀しくなる様なことに出会う機会も増えている。もちろん、私自身が知らなくたって、世界中ではいろんなことが起きているのだけど、それを「知った」という事実により、私という小さな一人にも任される何かがあるように思う。そしてその1つが考えることなんじゃないかと思う。

何か事件が起こると、御意見番のような人が出てきてテレビで話をして、それを聞く人の一体何人がそれを鵜呑みにするのだろう? その割合は、きっと想像する以上に多いんじゃないだろうか。そしてその鵜呑みにする部分は、きっとその御意見番の人の言葉の一部でしかない。だって顔をあわせて話をしたって、全てを分かるように話をできる人なんていないんだから。

私が怖いのは、そうやっていろいろなものを飲み込んでいくうちに、自分で考えたことを入れるためのスペースが足りなくなってしまわないかということ。もしくはごっちゃになって、自分と誰かの言葉の境目が分からなくなってしまうこと。こうやって恐れていても、私自身、無意識のうちに考えることを止めている時がある。だからできるだけ意識的に、何か嬉しいことや哀しいことがあったときは「うれしい」「かなしい」という単純な感想でも良いから自分の中から出してみるようにと心掛けている。

そうやって、わざわざ心掛けなければならないことがある生活というのは、ある意味で贅沢なものだと思う。考えずにはいられないほどの対象がある時ほど人の(その対象にむける)集中力が高まる時はない。その集中力がプラスとマイナス、どちらの方向に発揮されるかによって、その人の人生の方向すら変わっていくとも言えるんじゃないだろうか。

いろんな事を知ることは、時に「自分には何も出来ない」という恐怖を与えるものでもある。前に書いた「他人の才能をうらやむ」というのと同じだけど、自らをものさしとして、何か素晴らしいものに、全然およばない自分が嫌になることが私には良くある。
だけど、いろんな人の話を聞いて、考えて、いろんなことを発見し、知ることは、それだけで自分のスペース、器を広げることでもある。
それが学ぶということですよって、なんだか小学校の先生とかが言いそうな台詞だけど、ここで大切なのは、時に自分のものさしから離れて、客観的な視線も合わせ持つということだと思う。

うーん、なんだかうまく書けないや。