古谷実はすごいところまでいってしまった、と「シガテラ」を読んで思った。なんて展開だ。
1巻が出た時は、まだコメディだと思っていた。でも「ヒミズ」を書いた後の古谷実がこのまま話を進める訳がないと思っていた。そしてその嫌な予感を裏づけするように、巻を重ね、ページをめくる度にそこに潜んでいる禍々しさに目を逸らしたくなってもやめられない自分がいた。そして3巻目でもう戻れないところまできてしまった。そして新しく出た4巻目にも救いはなかった。
シガテラのすごいところは、可笑しみと悲惨さが共存していることにある。そして現実と言うのは得てしてそういう残酷さをもった世界でもある。残酷さと救いと、どちらが内包されているものなのか、それは物語が終わってみないと分からない。でも、終わりってなんだ?
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シガテラを読んで、私が思いだしたのは2002年に出た荻原浩さんの「コールドゲーム」だった。
17歳、まさかそんなに早く死ぬなんて思ってもいなかった。
という帯の文字が衝撃的で、私は初めてこの著者の作品を手にした。シガテラと同じくいじめを題材として扱っている作品だが、書かれるのはいじめていた側の視線からである。「俺たち、そんなにひどいことしたかな。あの時は、しょうがなかったんだよ。自分だけやらないとクラスで立場がなくなっちゃうって感じで……」
なんて台詞がリアルで恐ろしい。そして物語はいじめのあった四年後、当時のクラスメイト達に次々と事件が襲いかかるところから始まる。重苦しいテーマの中、随所にコメディの要素をちりばめ、ミステリーとしても完成しているところがシガテラと近いように感じるのかもしれません。そして「コールドゲーム」は、いじめていた側に安易な救いを用意しなかったと言う点でも印象に残っている作品で、その辺りに私は著者の良心を感じました。
この二つの作品を読むと、共同体の中で生きる為には他者の感情を察するという能力が非常に大切であるということを痛感させられる。自分の立ち位置なんて、ほんとうにあやういものだ。傷つけられることは誰だって怖い。だからこそ、常に「善」であることなんて出来ない。
とても難しい問題だけれど、「この状況」を終わらせる為ではなく「この状況」が終わった時のことを想像することに出口への道があるんじゃないかと思う。
しかし、シガテラはどうやって終わるんでしょうか。全く想像がつきません。