野ブタ。をプロデュース/白岩玄

野ブタ。をプロデュース

野ブタ。をプロデュース

友人から借りていたのにしばらく放置していて、今日慌てて読了。なんかすっきりしないけど、ひっかかるものがあるということは、それだけの面白さもあるということだと思う。でも、正直言ってあまり好きな話ではないです。
芥川賞候補にもなった第41回文藝賞受賞作。あらすじは、転校生→いじめられっ子となってしまった奴を人気者にすべくプロデュ−サーを買って出る俺。の視点から描かれた学校生活もの。齋藤美奈子氏が「『セカチュウ』で泣いてる場合ではない、『野ブタ。』を読んで笑いなさい」と絶賛したらしいですが、私はちっとも笑う気になれませんでした。
それは「つまらないから笑えない」ということではなくて、この話がそもそも笑わせるためのエンタテインメントであるとは思えないからです。

(↓作品をこれから読もうと思っている方はとばしたほうが良いかも)

この物語ではまず、プロデュースされる立場のいじめっ子が出てくる場面の前に、少し長めに主人公のスタンスというものが描かれています。主人公である彼は最終的に2段階の視点を持つことになるのですが、まず冒頭で描かれるのは、全てのクラスメイトや近くにいる大人達を軽蔑し、特に「俺はあんたらとは違うのよ系の友達が居ない奴はプライドバカ」と蔑む視点。
その彼が、やがて訪れる”転校生を「野ブタ。」として売り込むプロデューサーの役割”に没頭していくようになるのですが、このあたりは今の(私は知らないけど)学校生活、というものの空気がよく表現されているのだと思います。確かに、自分が他者からどうみられるか、ということを計算して動くことで、この主人公や野ブタ。のように振る舞うことはできるかもしれません。
でもそれは果たして幸せな、もしくは良いことなのでしょうか。
この主人公は、クラスの中でも孤高の存在である少女といちおう「つきあっている」ということになっていて、その彼女との距離に戸惑っています。それは彼女という存在を自らの中に入れてしまえば、その仮面が剥がれてしまうかもしれないから。
つまり、彼にとってプロデュース行為というのは、自らの「演じる」という行為を正当化させるためのものであったのだということなのでしょう。
ある事件を切欠に、それまでの人気者としての立場を失った時、彼は「プライドバカ」と蔑んでいたクラスメイトと同類である自分に気付き、第二の視点を手に入れるのですが、「俺は奴らとは違う」というプライドを捨てられないがために、失ったものは取り戻せないまま、結局その場から逃げ出すことになります。
この辺の過程は勢いがあってとても良いです。むしろこのあたりをメインにしてくれたら、かなり印象が違っていたと思う。しかしこのくだりはかなり後半であっさりと描かれていて残念。
その場に留まり、その先を見る事無しに彼が変わることはないだろう、と思う私には、「(転校先で)これから自分自身をプロデュースする」という決意をあらわす最後の一文が蛇足に思えました。それまでもさんざん自分自身をプロデュースし続けてきたのに、何故それを続けるのでしょうか?
彼と同じように、自らが自分を偽っているような感覚を持ち、人との距離の取り方に戸惑っている人には救いのない話です。

例えば、この作品が、「野ブタ。は、その仮面を自らのものとして身に付けた」、だの、「俺は俺のままでいく」、だのという終わり方をしていたら、読者は「ありがち」という感想を抱くのかもしれません。そして作者は、そうなることを否定しているのが自意識過剰な主人公自身だと言いたいのかもしれません。

ただ、私は作家の第一作というものは、大方の場合、もっともその作者自身に近い作品であると思っているので、何故この作品が自分を偽るという行為を否定も肯定もせずに、「振り出しにもどる」という終わり方をしたのか、疑問に思ってしまいます。

物語全体は主人公のモノローグを中心に流れて行きますが、リズムはいまいち堅く、町田康舞城王太郎や岡武士のようなビートは感じられません。また、人気者だったころの主人公が発する軽妙なはずの会話も、いまいち笑えず(そもそも「(笑)」を多用するのはどうなんだろ)そこらへんが逆になんともいえないリアルさを醸し出しているなあとも思いました。