アメリカ/藤原新也

アメリカ (集英社文庫)

アメリカ (集英社文庫)

藤原さんの本を読みはじめたのは一年前くらいで、それからたらたらと見つけては読んでいるんですが、読む度に、その文章が書かれた時期を最後にみて驚いてしまう。この「アメリカ」は藤原さんがアメリカを旅しながら考察したことの記録として書かれたもので、1990年に刊行された*1。なのに今語られていることのように思えるのは、藤原さんの視点が「ぶれない」からなのではないかと思う。
私自身のアメリカ体験はほとんどないに等しい。カナダへの短期留学中にシカゴとサンフランシスコに立ち寄ったことがあるくらいで、ほとんど印象に残っていない。だから、自分の見たアメリカと比べることは出来ないけれど、この本を読んで、はじめてアメリカという国の姿をおぼろげながら見ることが出来た気がした。もちろん、これは藤原新也さん個人の見たアメリカなので、平等な視点ではないところもあるだろうけれど、「個人の目」に貫かれた本だからこそ生々しく見えてくるものもある。藤原さんの本を読んで感じるのは、いつもそういうことだ。
「ASH」での一文。フリーウェイですれ違う車を運転するもの同士に交わされる笑みについて。

お互いを知らないことが、お互いを知っているとき以上に、軽やかな後くされのない、MAN(人間)の感情を裸のまま交わし合うことができる(p116)

他の文章では、やはりというか、黄色人種である藤原さん自身が受けた排他的な視線についての描写もある。だからこそ、この一文がひどく印象に残った。ともかくアメリカは面積として広い国なのだと感じた。中国にいった時に、その広さ、街と街を繋ぐ路の周りの、それこそ草木すらない「なにもなさ」を恐ろしく感じたけれど、あの感覚に近いのだろうか。
そして続く「アメリカの月」では、アポロ11号の月面着陸のシーンについて、興味深いことが書いてある。藤原さんは、そのニュースをイランで見たという。

宇宙飛行士がイランの砂漠そっくりの月面をフワリと飛ぶ。(中略)星条旗が画面に現われ、それが月面に突き立てられる。
(中略)
砂漠の群れなす人々の中の誰かが叫んだのだ。その叫びには”アメリカ!”という言葉が混ざっていた。私には意味がわからなかった。しかしその語気から、それが喜びの表現ではなく怒りの表現であることははっきりと読み取れた。(p146)

イスラムの国では月が信仰の対象であること、そしてあえて不明の部分をつくることでそこに神のイメージを描く、という言わば神秘主義とアメリカの唯物主義とが相容れないものであるのだろう、ということが書かれている。その後に続くオルドリンについての話など、現在にまで続く、くっきりとした道筋を見た思いがした。
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この本を読みすすめている間、国家が描かれ、個人が描かれる、その行き来の中でときおり目眩がしそうになった。
たしかに民族や国家というのはある種の「傾向」を生み出し、歴史が形作られる一要素となるんだろうけれど、「個人」はいつからそのレールの上に乗るんだろうか? その国に生まれたときか、民族の血を受け継いだ時か。思想の問題とかそういうことではなくても、例えば国や経済の目指す方向(アメリカの街を覆い尽くす2×4建築とかそういう話もふくめ)とかそういうことが、いったいどこで決められているのかっていうのは見えにい。でも、それは自分が国を形作る要素であるという感覚が希薄だからこそ、見えにくい、と感じるのかもしれない。でもちゃんと見えてる人ってどのくらいいて、見えているものを選びとる人ってそのうちのどれくらいの人なんだろう? なんかちょっとこんがらがってきた。

最後の方で、どんな国の人でもフレンドリーになる場所として「山」が挙げられ(p424)、それは野生動物のような暗黙の不可侵条約によるものだと書かれている。どんな国のどんな宗教の人だって結局は個人なんだから相容れることは出来るだろうと私は思う。しかし、そのためにはやっぱり互いを尊重するということが大事なんだと思う。それは、なんだか入り口に戻ってきた感じのつまらない言葉にも思えるけど、大切なことは実は最も単純なことである場合がほとんどなんじゃないだろうか。
そして尊重するということの1つの形が、相手の見てるものを見ようとすることだと思う。藤原さんはそのようにして見て、体験している。友人になろうとしてるわけじゃないから、ほんの一瞬でもいい。視線が重なる、その瞬間にこそ相手の場所に触れることができんじゃないかなと思ったりした。

*1:画像は文庫版ですが、メモしてあるページ数は単行本のものです。