翔太と猫のインサイトの夏休み/永井均

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない

毎日少しづつ読んでいたので、いつの間にか1ヶ月近く経っていました。こんなに長い時間をかけて本を読んだのは久しぶりです。
この本に興味を持ったのは、『<子ども>のための哲学』を読んだからなんですが、巻末の言葉を読むと、先の本の執筆中に浮かんだ構想に拠るものがこの本だということでした。
この本は、翔太と猫のインサイトによる対話を通し、いろいろと立ち止まって考える点を与えてくれる物語で、まるで私も二人の横で話を聴いている気分になりました。『<子ども>のための哲学』が「哲学とはなにか」を教えてくれる本だったとしたら、これはインサイトによる例題を考えていくことで「哲学をするということ」を学ぶことが出来る本だったのではないかと思います。
あまりにもいろんなことを考えたので、まとまらない気がするけど感想を書いてみます。
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『第2章たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか』にて翔太と同じく私がショックだったのは「顔もかたちも性格も記憶も変化した」好きな人を愛することができるか、という話。つまり自分自身にとってはどんな要素が変化しようと自分は自分でしか無いけれど、他者に対して抱く感情というものはその人の持つなんらかの「要素」に裏付けられているということ。愛と言う言葉を使うなら、とりわけ重要なのは「記憶」、だと思います。しかし自分自身に置き換えてみると、その要素は自分が存在した後に付け足されるものであり、その要素によって自分自身があるということはありえない。なんだかこんがらがるけど、「何故、1つとして同じものはあり得ないのか」という話で、それは同じ場所に存在することができないからだという説明がとても分かりやすかった。重なれないということで唯一であるという意味では、「時間」また唯一のものだ、ということは私も良く考えることなので頭の皺をなぞられるような気分になった。
『第3章さまざまな可能性の中でこれが正しいといえる根拠はあるか』という章は道徳についての話からはじまり、とてもよく理解できるけど、感情的に考えるととても怖い話でした。

『勝てば官軍』ってことのほんとうの意味はね、勝ったから官軍になったってことが完璧に忘れ去られて、その勝利をみんなが心から喜んでくれるようになるってことなんだ(.p125)

「道徳というものは、その時大多数の人によって信じられている良いことに過ぎない」ということを言ってるのだと私は理解したけれど、確かに人間が環境にとって悪影響を与え続けているのは大多数の人間にとってそれが「便利」でああるからにほかならない。余談ですが、p121に例として、「こんなにもたくさんの交通事故が起こっているのにもかかわらず何故人間は車に乗り続けるのだろう、それは便利だからだ、つまり人間は便利さと引き換えに人殺しを容認する生き物である」という例が載っていたけれど、そういえば同じことをトム・ヨークが言っていたのを思いだした。
しかし、そう考えてみると、人の良心というものはどこに存在するんだろうということになるんじゃないの、と思いながら読んでいたら、しかしそこで基準となる「よい」「わるい」すら人は自分自身にとって「いいこと」か「悪いことか」という視点でしか考えられず、つまりは道徳とは「自分を特別扱いするシステムに過ぎない」インサイトに言われてしまった。ぐうの音もでない。でも私はそれが人が生活していく上のルールとして考えたい。経験によって培われた「自分」たちが心地よく過ごす為のルール。となると最初の「官軍」にとっての居心地の良さということになりかわってしまうんだよなぁ。民主主義社会に生まれ育ったからだろうか。平原とかに生まれ育ったら私はどう考えるんだろう?「そんなことは本来想像することの出来ない問題なんだよ」とインサイトに言われてしまいそうだ。
そしてそれは第四章にて話された「意志」と「欲望」を「よい」「わるい」で区分けすることは根拠のない偏見だという話に繋がっている様な気がする。

第四章『自分がいまここに存在していることに意味はあるか』という章で最も印象に残った話は「死」の捉え方について。

つまりね、死ぬってことは、もともとあった何かが、ありえたはずの何かが失われる、ってことなんだよ(p199)

インサイトは語ったけれど、死というものをこれほどシンプルに解説されたのは初めてのような気がする。すごくしっくりくる言葉だけれど、そう考えると他者の死が悲しいのもまた「自分」を基準にしてしか考えられないということになる。しかし1人しかいない自分と同じように全てのものはそれしかないのだから「今、こうしている事」自体が奇蹟のようなものだという事を知っているからこそ、失われていうことを人は悲しむことができるとも言える。でもその悲しみは、むしろ「再び」がないという不可能さ、どうにもならなさの方に触発されるもののような気がする。なんて、私はどうしても感情的にしか物事を考えられないけどやはり人1人が失われることは世界全体が失われることと均しいと思った。
続いてインサイト「宗教というものがその人の存在意義とされることは錯覚である」という意味のことを話していたけれど、私自身は宗教ってさっきの道徳と同じように、「何かを恐れることで、自身から他人にとって(自分にとって)害を成す様な行為を牽制するためのもの」なんじゃないかと思う。例えば、「誰かがきみにやったら、きみなら怒るであろうようなことを、きみが他の人にやってはいけない(p118)」という「自分を特別扱い」するやり方はそのままキリスト教の「汝の隣人を愛せ」っていう言葉に置き換えられるんじゃないだろうか。存在意義におきかえられるべきものではなくても、それは拠り所や指針となり得る、と私は思う。例えば先ほどの「死へのどうにもならなさ」に対抗するためにはやはりそのような拠り所が必要だったりするのではないだろうか?

最後に、この本を通して最も印象に残った言葉を挙げてみる。

まったく一回かぎりの自分だけの体験を重ねることを通じて(略)そういう体験を味わい尽くすことで、きみははじめて本当の認識力をもった大人になっていくんだ。(略)自分が遭遇した偶然を通じて、きみは世の中で一般的に通用していう言説や言論がどんなにいい加減で信用ならないものかがわかるようになるはずだ。(p208)

年齢的にはもう充分大人になってしまったけれど、そういう風にして、私も成長していきたいと思う。また感情的な話になるけど、「他者の状況を自分自身に置き換えて考えてみる」という想像力はやはり経験によって培われるものだと思うし、そうやって倫理観って形作られるんじゃないだろうか。
私は哲学の歴史についても体系についても全くの無知なのですが、この本を読んで、考えることによって、自分なりの指針と思えることを見つけ出し、更新していくことが哲学なんじゃないかなと思いました。
あれ、もしかして「俺の人生哲学は〜」とか言うのってそういうことだったのか。
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永井均さんの本を2冊読んでみて、どうやら私は『自分の存在』という議題よりも倫理や宗教の話に気持ちを奪われがちな気がするので、次は『倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦』か、『私・今・そして神―開闢の哲学』を読むつもり。