シガテラ5巻/古谷実

次のヤンマガで最終回だというシガテラ。今どうなってるのか知りたいけど怖い。今日やっと5巻を買って読んだけどほんとうに怖い。特に54話の表紙が怖い。
シガテラのすごいところは、ごく日常的な可笑しみと悲惨さや狂気が背中合わせに共存していることにあると思うってのは前にも書いたけど、この5巻を帰りの電車の中で読んでいた私は、いつも通りの電車内が、いつも通りである保証なんてなんにもないんだと思って、思わず周囲を見回してしまった。そして今回もまた古谷実はどこまでいっちゃうんだろうと思った。
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いま現在生活している上で、理由も無く危機感や警戒心を抱くことなんてほとんどない。でもそれは、周囲の人々に対する暗黙の信頼感の上に成り立っているものでもある。また、因果応報とか目には目をとかいう理由を前提として「なにもわるいことをしていない」から「だいじょうぶ」だと、どこかで信じているところもあるかもしれない。でも、このシガテラの中で描かれる「ヤな気分」の芽のようなものが生まれる瞬間に、理由なんてほとんどない。
例えば、失うものがない、という状態は人を強くするとする。逆に守るものがあるという状態は人を弱くするとする。でも、その守りたいもの、といってもそれは例えば「あの人に嫌われたくない」とか「明日のテレビみたい」とか、それこそ「死ぬの怖い」とかそういうことでもあるだろう。だとしたら、その境目なんてひどく曖昧なものなんじゃないだろうか。そういった連綿と続いていく日々から、ある日突然切り離されてしまった(もしくは、そう感じた)時、失いたくないものなんて何もないと思ってしまった時、つまり、なんの牽制もない状態に置かれた時、人がどういう行動をとるかなんて誰にも予測できないんじゃないだろうか。
そして、それが予測できないということよりも、守るものがある人、日常の中に生きている人には、「自分は切り離されている」と感じている人の気持ちを知ることはできないだろうという事が一番おそろしいと私は思う。シガテラでいえば、アキコちゃんがタニ君の置かれている状況を理解できないように。
読みながら、いつのまにかもういっそこのままラブコメになってくれと念じながら読んでるけど、でもそうはならないんだろうな。なのにそう念じたくなるのは、その日常が守りたいものであるからにほかならないんだけど、そんな風に守りたい日常がすべての人にあればいいと思うよ。
しかし南雲さんはいい娘だなー。

シガテラ(5) (ヤンマガKCスペシャル)

シガテラ(5) (ヤンマガKCスペシャル)