メゾン・ド・ヒミコ

ichinics2005-09-23
犬童一心/監督・渡辺あや/脚本
ゲイである父親を、ずっと嫌っていた一人の女の子が、その父親が作った「ゲイのための老人ホーム」で働くことになるお話。
いろいろ考えさせられることの多い映画だった。そしてなんだかすごく、不思議な映画でした。例えば、犬童さんと渡辺さんが組んだ前作『ジョゼと虎と魚たち』が、コミュニケーションから物語を作り出していたのに対し、この『メゾン・ド・ヒミコ』には明確な筋のようなものが見当たらないように感じました。そこにはただ「情景」があって、彼ら1人1人が何を考えているかということも、登場人物たちのやりとりからというよりは、その情景として描かれているような。そんな気持ちになったのは、彼ら1人1人が、すごく閉じたところにいるからなんじゃないかなと思います。

ネタばれあるので畳みます
まず最初に不思議に思ったのが、父親と父親の恋人という二人の男性に直面した主人公が、そのどちらに対しても嫉妬という感情を持たない、持っているように見えないところでした。たぶん、父親との邂逅をテーマにした作品だったら、そこにスポットがあたったんじゃないかと思うんです。
途中、死に行く卑弥呼を目の前にして、春彦が「愛とか意味ないじゃん」というシーンがあって、彼は「生きる為には欲望が全てだ、欲望が無ければ、死んでしまいそうだ」と吐き出すのだけど、この場面はとても印象に残って、その後ずっと、映画を見ながら考えていたのは欲望のことでした。
ゲイとして、世間の冷たい目にさらされている老人ホームのメンバーは、それぞれ満たされない欲望を抱えて寄り添っている。
老人ホームだけあって、欲望が満たされない、という状況を達観しているように見える人物も多いのだけど、例えば裁縫の上手い山崎さんなどはその感情のほころびが見える存在として描かれている。彼が初めて女性の服を着て外へ出かけて女性用のトイレでお化粧をする一連のシーンは、主人公が初めて心を開いたように見える場面でもあったのだけど、それはきっと、「女性であることを楽しみたい」という欲望が彼らの間で共感を生んだのではないかと思う。そして、春彦と主人公の関係も、欲望を媒介として繋がりそうになる。
しかし、主人公が父親という存在を通してゲイを憎むことをやめられない(だって、それは彼女にとってのアイデンティティですらあったのだ)ことから、うまくいきかけていたコミュニケーションも破たんしてしまう。
人はそれぞれに抱えているものがあり、それは時に、共有できないことであったりもする。たとえばこの映画における性別のように。
しかし、最終的に、その関係は異性でもない同性でもない微妙なものとして続いていくことになる、というラストは良かったと思う。人間関係に置ける欲望の最も強い形が独占欲だとして、その欲望を欠いたところに生まれる関係っていうのは、きっとお互いの存在をただ認めあうということなんじゃないかな。そして、それはきっと別の問題、例えば宗教とか育った環境とか、そういうことに置き換えることのできる希望だと思う。
とても繊細な映画で、見る人によって受け取る感想はまったく違いそうなのだけど、私が考えたのはこんなことでした。
* * *
やたら長くなってしまったけれど、1つ残念だった点を挙げるとするなら、卑弥呼と春彦の関係が、いまひとつ切実なものに感じられなかったということ。これは物語の中に回想シーンのようなものが1つも入らないことから、きっと意図的なものなのだと思うけれど、春彦がなぜそこにいるのか、という所については何も語られることがなかったのは残念。もしかして、春彦は卑弥呼の存在よりも、自分の居場所としての卑弥呼を求めていたのだろうか、なんて考えたりもしたけど、どうなんだろう。
しかし、そのとらえどころのなさが逆に、彼だけを空想上の人物のように際立たせているのも確かで、この映画の見どころは、ときかれたらきっと、オダギリジョーさんの色っぽさだと答えるだろう。これはすごかった。手前にいる人物の演技を撮りながら、その奥にオダギリジョーさんが見える、という構図がいくつかあったのだけど、止まっていても動いていても、目を惹かれてしまう存在感がある。そして柴咲コウさん演じる主人公のムスっとした顔もまた対照的で良かった。ちょっと唐突に思えるシーンもあったけれど、彼女の力強い視線は台詞以上に雄弁で、とくに初めてメゾン・ド・ヒミコに足を踏み入れるシーンが印象に残った。
細野晴臣さんの音楽もとても良かったです。