RADIOHEADと村上春樹について

いつも拝見している「モウビィ・ディック日和」ishmaelさんの文章にちょっと触発されるところがあって、いろいろ考えたことを書いてみようかと思います。ただ、ishmaelさんの書かれていることの真意が私に理解できているのかについてはちょっと自信がありません。さらに、ishmaelさんが主として語っているSigur Rosの新譜はまだ聴いてないので話がずれているのですが、でもまあこれまでのアルバムは聴いてきているので、なんとなく、ishmaelさんのいわんとしていること、避けたいと思いつつも惹かれている(ように感じる)部分、については想像できているといいなと思ってます。

村上春樹Radioheadについて、特にOK ComputerとKID Aについて言葉を吐いたとき、僕らはようやくRadioheadの嘘くささにピンと来たわけですが(中略)例えばRadioheadのKID Aから、あのトム・ヨークの狙いすましたような「都市感覚」やら「絶望感」やら、そういう神託の如き荘厳で中身の無い語を取り去ってみたら、一体何を語ることがあろうか。全ては身振りに過ぎないし、逆に言えばそれが僕ら自身の空虚さを逆説的に文字化(そう、それは確かに文字化といわれるべきものの様に僕には思える)しえてるから、何か打たれるところがあるのではないか!
http://d.hatena.ne.jp/./ishmael/20050927/1127795041

ishmaelさんの意図されてることとは異なると思うのですが、この一文を読んで、私が「海辺のカフカ」を読んで、かなりしっくりこない、と感じた(ということを昨日書いたのですが)一因は音楽にあったんじゃないかと思いました。村上春樹さんは以前私が働いていたレコード店にもいらしたことがあるのですが、ほんとに、純粋に音楽ファンでいる方なんだと思います。だから、主人公が一人称であり、作者自身と重なるように読めるものを書いていた頃は、物語の中にいろんなミュージシャンの名前が出てきてもそれは風景の一部のようなものとして馴染んでいたのだと思う。
ただ、海辺のカフカでの主人公、カフカ君は村上さんが意図して作り上げた主人公であり、だからこそ、そこに「この主人公はこんな音楽を聴いているだろう」というようなやり方でちりばめられた音に、私はちぐはぐさを感じてしまったんじゃないかと思うんです。
Radioheadの作り出す音楽はそのような使われ方をすると、一気にその魅力を損なわれがちで、それはまず「今」の音楽についての語りにくさということなんじゃないかと思う。
音楽も文学も、作者の手を離れればそれは既に受取手のものになってしまう。そのことに苛立を感じるアーティストもいるだろうけれど、その作品の中に何を見いだすかは、やはり受取り手にしか決められないことです。ただ、今まで春樹さんが取り上げてきた音楽に比べて、Radioheadは、その受け取られ方が決定していないという意味で、あまりにも生物過ぎる。
私がRadioheadの音楽を信頼している理由を、一番私自身が避けたいと思っている言葉で現すならば、たぶんトム・ヨークという感情を乗せた、非常に性能の良いマシンのようなその「Radiohead」というバンドの構成にあります。だからこそ、そこで語られていることが何であれ、その職人のような音の作り上げ方にあっけなく感動してしまうのだと思う。つまり、トム・ヨークのドラマチックな声を限りなく生かすその音とともに聞こえてくる音楽は、聴くものの中にある何かを映すものなんじゃないかと思うのです。
そして、私は村上春樹さんという人が書く物語もまた、同じような構造を持っているのではないかと考えています。
つまり、その物語で何が語られているか、ということよりも、その物語を通して、受取り手(読者)が体験する「何か」に特別なものがあるのではないかと思うわけです。
そういう意味で、Radioheadという音楽におけるトム・ヨークという主人公は村上春樹さんの物語における「僕」という存在の効果と重ねて見ることもできるんじゃないかと。
なんて、これはほとんどたった今の思いつきなのですが、ishmaelさんの書かれていた「僕ら自身の空虚さを逆説的に文字化」するということは、私にとってはこういうことなんじゃないかな、と思ったりしたわけです。それは結局、私自身がその「空虚さ」とか「嘘くささ」みたいなものにどっぷりと浸かっていることにほかならないのかもしれないのですけど、逆に自分の中のそういう部分を目の当たりにするのも、悪くないかなとか思ったりします。