空中庭園

ichinics2005-10-16

監督:豊田利晃 原作:角田光代
様々な形の「疑似家族」について、くり返すように作品を描き続けていた角田光代さんが、たぶんはじめて、血のつながりをもった1つの「家族」を題材に描いた作品が『空中庭園』だったように思います。
原作が、家族とそのまわりの人それぞれの視点から描かれた連作短編集だったのに対し、映画は家族の母である絵里子を主人公に据えたものでしたが、小説も時間があまり重ならずに繋がっているお話なので、かなり原作に忠実な映画化だったように思います。ラストは少し違っているけれど、その辺りに豊田監督からの「返答」がこめられているような気がする。
昨日書いた文章の中で、「共同体の中でなんらかの役割を負う事」を例えば水の入った大きな盆を皆で支えているような感じ、と書いたのですが、そこにさざ波をたてるような出来事を極力排除し、完璧な家族を作り上げようと必死になる主人公、絵里子を演じた小泉今日子さんの迫力はすごかった。

「思い込んでると、本当のものが見えないって話」

と指摘されてもなお、それから目をそらし続ける絵里子は、そのさざ波の中に映るものではなく別の何かが「映るはずだ」と思い込みつづけているのだけど、あの、視界が開ける瞬間のドラマにはちょっと鳥肌がたった。
そして、絵里子の「重さ」を軽くいなしていく鈴木杏ちゃん広田雅裕さん板尾創路さんが作り出す家族の風景も、リアル(物語として)だったと思う。それから大楠道代さん演じる絵里子の母も、良かった。小泉さんと大楠さんは声が似ているのか、二人が会話をしているシーンではほんとの親子の会話みたいに聞こえてくる。とにかく全てのキャラクターがしっくりと役柄におさまっていて、豊田監督はほんとにキャスティングセンスが良いなぁと思った。良い作品でした。
豊田監督ならではというか、例えば「ポルノスター」の時のナイフの雨みたいに、暗喩と捉えるにはちょっとくどいような演出もいくつかあるといえばあったけれど、そのくどさ、というかわざとらしさが、『空中庭園』という空虚な楽園を映し出す舞台として効果的にも思えて、ますますこれからの作品が楽しみだと思っているので、ぜひ、復活してほしいです。
(以下、内容に触れています)
* * *
前に「庭の桜、隣の犬」の感想(id:ichinics:20050403:p1)を書いた時に、角田さんの作品に共通する題材は「日常に紛れ込んだ異物」であり、その影響によってそれまで目をそらしていた「何か」が浮き彫りにされていく、ということを書いたんですけど、改めて「空中庭園」という作品を見てみると、ここから「庭の桜、隣の犬」までの過程で、角田さんの家族に対する捉え方は少しづつ変わっていってるんだなぁということを思いました。
豊田監督がこの作品に対して送った返答は、たぶん「それが学芸会であったとしても、家族を続けていくこと、役割を負うことに対して肯定する」ということだったと思います。
映画の中で、絵里子の母親が言う台詞に「少しづつ記憶を良いものに書き換えて行く」というものがあったのだけど、それを許していくことで続いてくのが家族なのかもしれない。そこで思いだしたのが『空中庭園』の中で書かれていたこの部分。

前世のツケを今払うって話はきっとミソノが考えたんだよな。あんまり不公平な今を、自分自身で納得したくて。でもそれ、けっこういいアイディアだと思う。だって、もしミソノの言うとおりなら、ぼくらはたとえちょびっとずつでも、いい方向へ変化してる、し続けてるってことになるもんね。(p297)

ミソノは今回の映画にはでてこないけど、この言葉に込められた希望の匂いみたいなものが、今回の映画ではきちんと描かれていたのが嬉しかった。
そして、劇場で売っていたパンフレットには、角田光代さん自身による書き下ろしの『空中庭園』続編が掲載されていた*1のですが、正確な書かれた時期はわからないものの、この短編が映画に対する角田さんからの返答のように感じられた。
幸せって実は、そんなきれいなものじゃなくて、気付くことが大事なんだろうな、なんて思ったりもして。こうやって、記憶を積み重ねて行くことで、過去を「肯定」するのもいいんじゃないか、なんて思えて、なんだかちょっと安心した。この短編は映画を見たあとにぜひ読まれるべきものだと思う。

空中庭園

空中庭園