今ここにいるいくつかのじぶん

夕方近く、まだほんのりと明るい空は風景をくっきりと暗く浮かび上がらせていて、幾重にも交差した電線が、それぞれの家に光を運んでいる。
最寄りのバス停に立って、いつものように、特に意識もしないでバスがやってくる方向を見遣る。歩道橋の上で、いくつかの小さな影が、こちらがわからあちら側へと走っていき、少し遅れてバイバイという声が聞こえる。そしてふと、あの歩道橋の上を、いつか私もあのように走ったことがあっただろうし、夏にはあそこで、この風景の奥にあって今は見えない、川岸で打ち上げられる花火を見た事もあったのだと思いだしてみたりする。
もしくは風邪をひいて会社を早退する時に乗る、昼下がりの小田急線の、あの青のシートがまぶしいと思う時に、ふと高校生の自分もまた同じように幾ばくかの罪悪感と、鼻歌でも歌いたいような優越感に浸りながら、窓の外に広がる夏の緑を見ていたんだということを、この冬の日に思い出す。
そんなふうに、季節も時間もなにもかもが、今ここの瞬間にあるということが、私が私であるゆえんでもあるのだけど、それと同時に、過去の私は今の私とは明らかに他人だ。それなのに、私はその他人である私の気持ちを、知っている。共感することはできなくても、それを理解することができる。
そして、その遠いけど近い感じはきっと、今ここにいない誰かも、似たようなことを考えていたりするのだろうかと想像することに少しにてるかもしれない。
想像と錯覚は似てるけど、距離があることによって錯覚は「ある」ものになるのかもとかちょっとわけのわからないことを思った。
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こういうことは、口では説明できなくて、でもこういうとこに書いてみたりはできるんだから、日記って不思議だ。油断してるのかな。あー「油断」て、油きれるより油さしすぎるほうが油断って言葉のニュアンスに近いような気がするなー。