ホテル・ルワンダ

ichinics2006-01-21
監督・脚本:テリー・ジョージ
この映画を見て、まず思い出したのは(またしても)伊坂幸太郎さんの『砂漠』及び『魔王』だった。この2冊の本には、ほんとに大事なことが書かれてる、と、私は思う。
『魔王』の感想を書いたときに引用した部分

「(略)戦場から帰ってきた兵士に、『なぜ人を撃ったのか』と質問をした時、一番多い答えは何かと言うと」
「殺されないために?」
「俺もそう思ったんだけど、違いました。一番多いのは、その本によれば」
「よれば?」
「『命令されたから』」
(中略)
「他の要因は?」
「集団であること」(p112)

そして、「ホテル・ルワンダ」で描かれる大量虐殺は、それが集団であることによって、動きはじめてしまったことなのだと思う。しかし、100日で100万人の人がなくなったというその事件は、同じところに住み、同じ言葉を喋り、同じ宗教を信じ、人種間結婚もしていた、フツ族ツチ族の間で起こったのだ、ということに、まず驚かされる。
その歴史について、私は何も知らなかった。そしてそれはこの映画で描かれる、外の国の人々以下のことだ。
でもそのことについて語ることは、『砂漠』での西嶋に言わせれば、

「こんな離れた国の、こんな居酒屋で、学生がビールを飲みながらね、どこかで死んでる誰かのことをね、しょうがねえよなあ、とか言ってること自体が最悪ですよ。俺たちはね、何もできないにしても心を痛めて、戦争が一日でも早く終わるよう願うことすらしてないじゃないですか。せいぜい恥ずかしげに言うべきじゃないですか」

ということに他ならない気がする。
だからといって、この物語は「恥じろ」と命じるものではない。あくまでも、1人の、多数派であるフツ族の、ポール・ルセサバギナというホテルの支配人が、立ち止まる話なんだと思う。その理由ははじめ、虐殺の対象となっているツチ族である彼の妻を守るためだった。そしてそれは、彼のホテルマンとしての誇りに忠実であることと重なり、結果として多くの命を救うことに繋がった。彼は立ち止まり、集団の流れに逆らうことを決意した。
もし彼がホテルマンではなかったとしたら、助けを求められることはなかったかもしれない。そうしたら家族以外の誰かを助けるという選択を、しなかったかもしれない。でも、たぶん、彼はフツ族である前に、家族の父親であり、ホテルの支配人だった。アイデンティティというのは、人にそれだけの力を与えるものなんじゃないかと、私は思う。
彼は決意する。そうやって、たった一人でも、まず立ち止まってみることが、群集を止める力を持つこともあるのだ。
それはすごく、勇気のいることだけど、立ち止まらなくちゃいけない、その時に、自分の考えて判断できる人になりたいなと思った。

公式サイト → http://www.hotelrwanda.jp/index.html
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ちなみにこれはこの前の日曜日に見に行った。かなり早めの時間に行ったつもりだったんだけど、最終回を残して全て満席。よかったよかった、と思って並んでたら、大学の先輩が働いていたのでびっくりした。忙しそうだったのでろくに話はできなかったけど。