言葉のイメージとか物語りとか

自分の考えていることを、他人に正確に伝える、ということはたぶんほとんど不可能に近い。仮にそれが起きていたとしても、相手の思考を知ることがなければ、それが起きたことすら知ることは出来ないだろう。だからこそ、人は言葉を発明し、それを媒介させることで、ある程度解りあって、生活することが出来るようにしたのだと思う。*1最近はそこを越える何かがないものかなぁ、なんてぼんやり考えているけども、それはおいておいて、とりあえず言葉について、ちょっと気になっていることを整理したい。
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言葉から受ける「イメージ」というのは、人によって大きく異なっている。例えば昨日の数字の話もだし、前に大学の授業で50音全てに色を当てはめる(「あ」→赤「い」→黄色とか)というのをやったことがあるんだけど、各人でかなり異なっていた。むしろ、重なっている部分が「不思議」に思えた。
ただ、明らかな物事を正確に伝達したい、という時に使う言葉(リンゴを持ってきてくれ、とか、明日は2月17日だ、とか)と、「考え」という曖昧なものを伝えるときに使う言葉はまた違うだろうし、そのイメージが重要になってくるのは後者の場合だ。
例えばこの前ちょっと書いた(id:ichinics:20060201:p3)朝日新聞のキャッチコピーについて、今日こんな文章を読んだ。

そして、言語の価値はそれが「無力」であるか「有力」であるか、現実変成の結果によって計量される(「ときに無力」であるという限定は、「ときに有力」である場合にしか使われない)。
有力であるのは(馬力の大きな自動車と同じように)「よい言葉」であり、無力な言葉は「悪い言葉」である。
わずか一行のうちにこれほど政治的な言語観を詰め込むのは、たいした「チカラ技」であるという他ない。
内田樹の研究室:言葉の力

この文章全体の真意については、私はちょっとよく理解できなかったのだけど、「有力」が「よい言葉」というのは、これ皮肉ではないのかな?
私があのキャッチを最初に読んだ時には「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。」でも《許せよ》という言い訳に感じた。でも後にCMで映像を見て「感情的で残酷な言葉に立ち向かう私の「無力さ」を「言葉のチカラ」を信じてがんばるから許せ」ということなのかなと思うようになった。ここで力がカタカナになっているのは、「力」という言葉は権力を想起させる(よって消費者に敬遠されるだろう)から、「チカラ」として逃げた、ように感じた。だから「有力な言葉」をよしとしているようには読みとれなかった。
と、まあ上記の引用文が皮肉でないのなら、キャッチコピーのような「わかりやすさ」を必要とする文章ですら、人によって感じ方は違うという一例になっているんじゃないかと思う。
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で、私が何を書きたかったかというと、言葉を使って、物語る(ここではフィクションを)ということについてなんでした。先日も触れた「面白いって何か」という疑問についての話につながるのだけど、「何」を伝えたいのかという部分は、その語り手の「核」になると思う。それをどのように伝えるかに「面白さ」はかかってくる。核の部分は、誰もが持っているものであり、それが普遍的であろうが、特殊であろうが、他者によって軽んじられるべきものではない。ただ、その核の存在は、人は他者の感覚を正確に理解できない、という不自由さによって、不確かで、共有されにくい(されないかもしれない)。
そこを越えて、どのように疑似体験させ、伝えるか、という工夫をすることが、物語ることだと思うのだけど、例えば、イメージを駆使するということは、客観的な視点を持つということでもあって、それは「伝達したい」という欲求を客観視することでもあるんじゃないかな。
つまり、語り手としては、そこに「核を理解させること」を重要視してしまうのだけど、物語の場合、そこに何を見るかは受取り手の自由なのだ。たぶん。受取り手にとって、自分の核に触れた、と感じる部分があったなら、その物語は「面白かった」ということなんじゃないかと思う。
あーまた結論が同じになってしまった。けど、これはもうちょっと考える。今日の所は整理。

*1:同じ話をぐるぐるしている → id:ichinics:20051202:p2