「意味」なんてないんじゃないか

例えば何か、映画や小説とかそういうものを、撮りたい、書きたいと思うのはなんでなんだろう、という話を昨日映画を見た後に友達と話した。
それが「楽しいから」か、「誰かに何かを伝えたいから」か、「自分を理解してほしいから」なのか。
「楽しいから」、だったら「書くだけで楽しいなら人に見てもらわなくても良くない?」になってしまう。
「誰かに何かを伝えたい」だとしたら、そんな伝えたいメッセージをお前は持っているのかということになってしまう。それを解らせる必要があるのか? って聞かれたら、ないかもしんないし、ある、としても自分がやるよりもっと良いやり方してる人がたくさんいるのも知っている、かもしれない。その葛藤を越えてくのは結構重いけど、それでも、と振り切れる、もしくは最初から気にしないでいられるなら、心強いことだろう。でも私にはちょっと無理っぽい。
「自分を理解してほしいから」というのが、私としては一番実感できる感じなのだけど、そんなこといったら全て自慰行為になってしまう。誰か一人に理解されること、ではだめなんか。だめじゃないかもしれない。それで充分かもしれない。それは信じる、信じないの領域の話だけども、信じられるならそれでいいかもしれない。でもそれだけじゃ満足できないってのもあるかもしんない。
でも、そういう葛藤を全部無視してもある、何か自分の中から取り出したいっていう気持ちはなんなんだろうなと思う。でもそれはあるところにはあるし、あるのならやってみたい。それを取り出してみることが、無意味だ、とは言えないというか、意味ないとか意味あるとかって何でしょうか。価値?でもそれって誰が決めるの?流通するかしないか?とか考えはじめるととまりません。
でもとりあえず、知りたいものは知りたい、でいいんじゃないだろうか(ということにしたい)。そして、その対象が自分自身ってことだってあるわけです。でも、その対象が他人って場合には知りたくても知れないという状況のが多かったりもして、だから人はソレについてすごく悩んだりするのかなと思いました。
と、こんな支離滅裂な文章書いてるのも知りたいものは知りたい、の上で自問自答してる感じなんだと思う。あー、もう、とか考えてたら凹んだんだと思う。吹っ切って身軽になることだけがいつも最良なわけではないんだろうな、とか思ったりします。
* * *
そんなことをだらだら考えていた今日、うわー!と思ったのが、今読んでる「ヴィトゲンシュタイン入門」(入門したいんです)の中に引用されてた一文で、

歴史が私にどんな関係があろう。私の世界こそが、最初にして唯一の世界なのだ。私は、私が世界をどのように見たか、を報告したい。『草稿一九一四 - 一九一六』より
ヴィトゲンシュタイン入門』(p25)

これ言えるってすごいなぁ、と思って感動したのです。
並列に書くのもおこがましいんですけど、でも報告されたくない、と言われてもやっぱり、それを報告したい、という気持ちが私にもあるんですよね。…って全然意味合いは違うのかもしれないけど。という弱腰が日記のタイトルが疑問形になりやすい原因です。