体験する読書、のような #2

あるいは言葉を形からだけ見れば「ある」と「ない」は同等のようだが、視覚などの感覚にとっては「ある」はあっても「ない」はなくて、視覚にとってはあるものがすべてで、「ない」のためにはないことを気づくための手続きをひとつ別に介在させる必要があって、しかもその手続きが起った途端にないものも内的過程では「ある」の残像に入れ替わっていて、その内的過程というのは普通に心と呼ばれているような文化によって生まれたものではなくて、文化を生み出す元となったような原初的な、空間との関係で要請された感覚と同じくらい強いもので、視覚や聴覚が空間にないものを感知できないように、内的過程も空間と引き剥がせないのだから「ない」とは「ある」の一様態でしかなく、(略)あるいは(略)たとえば一枚の絵に猫が描かれているとき、その描かれた猫という個別性の向こうに作者が思い浮かべてる個別の猫の系列があり、その絵を見る者にも個別の猫の系列があり、それらは別々のものなのだが、見る側がその絵に対してある思いを抱くなら、その描かれた猫は作者と見る側それぞれの個別の猫の系列の一端でなく普遍性を媒介する機能を担っているはずで(略)……というようなことなのだが、(略)ボッコが手摺にいるかいないかを同じにできるとしても、チャーちゃんがいないことまでは救わないようだった。(p253)

またしても保坂和志さんの「カンバセイション・ピース」からなのだけど、今日はこの部分を読んでいて、うわ! と思った。(あんまりにも長いので略だらけになってしまったけど、大意は損なっていないといいなと思う)
そして、うわ! と思ったのは、前に『「ある」ということ「ない」ということ』という文章を書いたときのことを思い出したからでもあるし、そもそもあれがあったからこそ、今この文章を読んで「うわ!」と思っている私がいて、もしそれがなかったら読み過ごしてしまった可能性も、あるかもしれない、ということでもあるし、その後に続く、普遍性を媒介する機能、という部分に、なにか他者の視線を借りるような、交差があるんじゃないかな、と興味をひかれたからでもある(このへんは何度も書こうとしてるのに、うまく捕まえられない)。
そしてまた、引用した文章の結びの言葉によって、まず「ある」ということのすごさ、そして、それが「ない」になるということの欠落の深さを思い知ったような気持ちになったからでもあるのだけど、わたしが「ない」じゃないのは、なんでなんだろうとも思う。というか、ほんとにわたしは「ある」? 
そんなふうに、最初の「ある」がどこからはじまるのか、ということを想像するのはとても面白い。俯瞰に俯瞰を重ねるような感じ。
そもそも、「ない」を語るときに「ある」を介在させている、というのはたぶんそんなにイメージしづらいことではないと思うのだけど、「ある」を他者と共有できていない可能性、例えば「空間との関係で要請された感覚」のようなものについては、得てして見過ごされがちだ、と思う。大差ない、ということにしておいて、それほど不便ではないからかもしれない。ただ、そこから派生するイメージや意識のようなものについては共有されない、と切実に感じることが、たぶんきっとあるはずで(とりあえず私にはあって)、でも実は重なっている可能性も「ない」とはいえないということがうまくとらえられないんだけれども、この本を読んで感じていることなんかは、それに近いのではないか、と思ったりしている。
もうちょっとで読み終わる。

#1→(id:ichinics:20060304:p3)