バランスから離れて、保留したい

少し前のBさんの記事『正論への忌避感−松本被告の次男が入学拒否された件で』を読んで、「考えたい」と書いてブックマークしてから、ずっと気になっていた。
でも、Bさんの感じていること、この文章で書かれていること、が把握できているのかどうかに自信がないまま、まだ考えているのだけど、個人的には、正しさが正しいがゆえに歯止めがきかない、ということに対する不安感、しかし無意識に逆を考え、バランスをとろう、と思ってしまうこの自分の中にある意識の流れは本当に私のものなのだろうか、という点で、私はこの文章が気になり続けている。特に、

僕らが共感しているのは、虐げられている人間という個人ではない。「虐げられている人間がいるという状況を是正しようとする、法律的な正しさが発揮されることに対する共感」ないしは「期待」である。

という部分を読んで、自分の思いがよくわからなくなった。「法律的な正しさ」というのは本来なら、社会の多数意見であるはずなのに、それは個人的な思いをしばしば裏切る。しかしそれを法律的なものに委ね、自らの生活と、切り離しているのは私の選択なのだ、とも思う。
そんなことを考えながら、このまえ(id:ichinics:20060307:p2)のなかで「大多数の「良いこと」の為に、黙認されてるものが、あるはずだ」でも「私と社会は明らかにイコールじゃない」と書いた。
そう、それで松本被告の次男が入学拒否された件について。

僕が気にするのは、なぜこのことを批判する人が権威の正しさまでも「代理」しようとするのかということ、この点につきる。

実際に、Bさんがどのような批判を読まれたのかはわからないのだけど、オウム真理教にまつわる様々な意見の中には、私はどうしても立ち止まってしまいたくなるものが多い。例えば先日触れた松本被告の精神鑑定についてもだし、教団の犯した罪とは無関係な末端信者にまで矛先が向けられている様も、恐ろしい、と思う。しかし、入学を拒否する側の意見も、わからないでもない。それはたぶん「多数」側の意見なんだろう。そして同時に差別や偏見がよくない、というのも、たぶん「多数」の意見だ。でも、私はその意見の偏り、バランスの悪さ、に違和感を感じているだけなのかもしれない。
ただ、私はその人が、どういう人か知らない。それゆえに、何も言えない、と思うんだった。私はその人に自分を代入できない。
同時に、もし何かを知るならば、過去で停止しているものでなく、それを含めて「今」あるその人を知らなければ、とも思う。何故なら、私は罰を受けることよりも、自分の今が誰にも見られないということの方が、恐いと思っているからだ。結局自分だ。
どちら側に立つか、を常に選択しなきゃいけないわけじゃないんじゃないか、と思うけど、逃げてるだけな気もする。でも、これはまた違う話かもしれない。