だいたい考え中、たまに鱗が落ちる

前にもこっそり書きましたが、今「ヴィトゲンシュタイン入門」を読んでいて、それがとても面白いんですけど、それは「論理哲学論考」に挫折した(というかよくわからなかった)から予習、というかちょっと梯子を探してみようという気持ちで読みはじめたんでした。
でもね、昨日書いた『世界って自分?』(要約)てのは、つまり

私の言語の限界は私の世界の限界を意味する。[五・六]
世界が私の世界であることは、この言語(それだけを私が理解する言語)の限界が私の世界の限界を意味することの内に示されている。[五・六二]

ということか、ということが、その辺りの解説にたどり着いて(「ヴィトゲンシュタイン入門」p80)やっと腑に落ちた気がした。目から鱗だ。
いや…でもなんかまだ理解してない気がするけど、とりあえず私が昨日思っていたことは、私の中では、上の言葉に置き換えても、そう、だと思える。というか『世界をどのように見るかという一つの目』って書いたのも『私・今・そして神』に書いてあったあの「開闢」ということか。かな?
でも私にはまず序文の『そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。』というとこのナンセンスという意味合い(意味なしのとこに意味合いってのもなんですが)がわからない。だって『知らないということを知っている』じゃないのか? と思ってしまうので、もうちょっと用心深いまんまで読むつもりだけども、でもなんか、すごい面白い。今まで読んできた、たくさんの物語の断片がここにある気がするし、それが何故、自分に響いたのかというとこが、そのナンセンスなとこにあるような、そんな気がする。ナンセンスって、もしかして「意味」について、語れない/重ならないということなのかなとか。うーん、また迂闊なことを書いてるけど。私の言葉の中では、そう感じる。とりあえず、今日のところは。
ともかく『論考』がちゃんと読めなかったのは、専門用語の意味合いが全然実感を伴っていない、つまり使ったことがない言葉だったからってとこが大きい気がする(しかしそれが全てではない)ので、入門読み終わったら再挑戦したい。

なんかもしかして、毎日すごいばかみたいなことばかり書いてるような気もするけど、私はいったん自分の言葉に置き換えないと考えられないし自分が何を考えたのかも理解できないし、だからまあいいかと思ってます。それを公共の場に出す必要があるのかという葛藤についてはとりあえず停止。