私信

それを思った時期は、私にもあった、と思います。
完璧な共感などありえない、とはいうけれど、言葉であらわすなら、全く同じ言葉を使っても、私のそれと相違ないという意味で、私にもそう思った時期があった、と感じています。
そもそも言葉というラベルを通して描かれた言葉に、似た感情を抱く、というのは、その感情に至るスイッチがオンになって、回路が開いているかどうか、ということなんじゃないでしょうか。だからやはり、完璧な共感などありえない、と言うより「完璧な共感を確認するすべはない」という方が、私にはしっくりくる。
ともかく。
そのスイッチをオンにする出来事は、起きました。起きた、と過去形で書くけれど、それは今の私の中にも混じりあっているので、時折、戻ってくることもある。私は常に、今の私と混じりあい、そのように変わり続けているけど、それが混じっているということは、きっとずっと変わらないのだと思う。
ただ、日によって光によって角度によって場所によって、そういった様々な要素によって、目に映る景色が(たとえ全く同じフレームからのものでも)変わって見えるように、「それ」をどう感じるかということは、否応なく変化していくのではないかと、今は、そう思う。
だから何だ、と思うかもしれないけど、私にとっても、この「いつか」にいるのは予想外のことでした。でもその予想外が、違って見える瞬間も、確実にある。ずいぶんとのんきな話に思えるかもしれないけど、別に急ぐような理由もないし(どうかな?)やりすごしていくのも、悪くないと思います。そして、いつか、まできたら、またそれが戻ってきても、違って感じるかもしれないんだ。
もしかしたら、違ってしまうことは悲しいことかもしれない。でも、その悲しいも、たぶん少しずつ変わる。
何よりも、あなたは(そして私は)、誰よりも自分のためにいる。そして、そのことは、誰かに(例えば私に)とって特別な要素になるかもしれない。もしかしたら、そのことを責任に感じているのかもしれないけど、でもそんなことは次の話で、今は、目の前にある小さなものを、心地良いと思えるものを、遠慮なく手にとって、それが少しでも力になればいいと思う。
うまく言えないので、昨日読み終えた本から引用も。

不変の未来がどんな姿をしていようとも、ぼくは確信していることがひとつあるーーいまなおぼくという存在が、未来をつねに決定してきて、そしてこれからもつねに決定していく要素の一部分であることだ。
『百光年ダイアリー』

これはあくまでも私信だけど、その相手は過去やこの先の自分にもなるかもしれない。
その時は、また違うこと思うかもしれないけど。それもまたよし、と今は思う。