すべての言葉はさよなら

中学生の頃、フリッパーズ・ギターが大好きだった。なかでも、この「すべての言葉はさよなら」という曲のことを思い出すと、今でもちょっと切なくなる。
この曲の歌詞の中には「分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ」という一節があって、当時の私は「でもほんとはそんなことないでしょう?」と思っていた。当然のように、人と人は、その気になれば分かりあえるものだと思っていた。
それじゃあいまは「人は結局分かりあえない」と思っているのか? というと、そんなことはない。ただ、今、この時点での私は、全ての瞬間で、分かりあう(お互いの言葉の意味を、相手が意図したように、理解しあう)なんてことは、ないと思っていて、それと同時に、分かりあったと感じる瞬間は、あるだろうと思っている。つまり中学生当時のイメージとは違って、理解や意思の疎通は全ての瞬間で継続するものではない、と考えるようになっている。それは、これまでに、分かりあった、と感じた相手がいて、その同じ人のことを、まったく分からない、と思ったこともあるから、そう考えるようになったのだけど、それを言葉で考えたのは、最近のことだ。
そして、分かりあった、言葉が通じた、と思う瞬間が、一度でもあれば、私はたいてい、その人のことを好ましく、大切に思う。もちろん、分かりあった瞬間が一度もなくたって、好きな人は好きだけれど、「通じた」と感じる瞬間があるということは、ちょっと特別なことだ。私にとって。

そして、その通じた人の中に、さらに特別に感じる+α(例えばタイミングとか)のある人がいるとする。私にとって、人を好きになるとは、そういうことだ、と思う。とりあえずこれまでは、そういうことだった。うーん。こと人間関係における「愛」の話になると、人の意見というのは、かなり、偏りがちな気がするので、実はあまり触れたくない話題だったりもするのだけど、今日はこの混乱をまとめてみたい気がしたので、ともかく。
私が今疑問に思っていることは、例えば、「愛しているのなら〜するべきだ」という言葉のこと。「愛してるのなら、相手を思いやるべきだ」とか。そして、それは大抵の場合、正しい。でも、その言葉の正しさは、「すべき」という言葉に従った時点で、正しさが損なわれてはいないだろうか?
なぜ私がそう思うかといえば、自発的な感情と、それを相手に要求することは、別物、だと感じているからだ。しかし「すべき」に従わないことで、私の感情に疑いを持たれる、ということは、あり得る。あり得た。
しかし、例えば私が、相手の気持ちを証明する証拠として、相手に思い描いている何か、が損なわれたとして、それはイコール相手の気持ちの消滅を意味するだろうか? イコールではない、と思う。意味しなかったこともあるし、意味したこともある。
そもそも、分かりあう、感情を共有するということ自体が、奇跡的なことだから、大事な相手に対しては、自分の行動に対する相手の感情を、想像して、行動する。ことが多い。いつもなんてできないけど、できるだけそうありたい、と思う。
でもそれは、いつも想像どおりではないし(もちろん)、想像しても、その通りにふるまえないこともある。
例えば、自分の欲求に反する場合。その欲求が、相手にとって善きものでない、と思われる場合には、どうするだろう。 天秤にかけて行動を選択する? だとしたら、そのとき天秤の向こう側に乗ってるのは、何だろう?

何が書きたいのか、よくわからなくってきたけど、つまり、どんな関係性においても(そこに例えば「愛」があっても)、相手の思想や欲求を「〜すべき」などと言って変えさせることは出来ないだろうし、出来たとしたら、それは意味あいが変化してしまっているのではないか、ということだ。しかし、それと同じくらい、相手が善き人であるように願う気持ちもまた、損なうことのできないものなのではないか?
でもその前に、知らなければならないことが、あるような気がする。
例えば、すべての関係はさよなら(死も含む)に繋がっている、ということ。そのとらえ方もまた、分かりあえたり、分かりあえなかったりするっていうことは、あるだろう。そして、肯定は必ずしも選択ではないということも。

なんか間違えて一回消してしまったりしたせいで、よけい支離滅裂な分になっている。ので、つづきはまたに。
とりあえず、これは考えてみたいから書いているだけで、こんなややこしく考えないでもうまくいく関係はたくさんあると思います。