宗教も倫理も似たようなものなんじゃないかな

宗教にまつわる話題を見聞きしていると、特定の宗教を信仰している/したことのある人、と、ない人の間には、壁というか、越えにくい溝のようなものが「ある」とされているような気がする。
例えば、外側から宗教を見る人が「理解しがたい世界」というような言葉を使ったりするのだけど、そもそも、同じ宗教を信仰している人同士でも、その「世界」観は共通してないんじゃないだろうか。なんて質問形にしてみると、なんだかそんなの自明なこと、な気もする。
個人的な感覚では、宗教というのは、倫理や言葉と同じで「それにあるていど共通の意味合いを伴って使う人々」の集まりが「宗教」という括りに集められているような、そんな気がする。
例えば、神という言葉にしても、それがどの神を指すのかは、たとえ宗教を信仰していなくても、属している慣習とか国とか、そういうもので、かわるだろう。例えば、この前行った青森で「山と暮らす」人たちの生活をかいま見たりすると(というか友達の話を聞いて、だけど)、今まで民話や神話のたぐいでしか認識していなかった「山岳信仰」(と言っていいのかもわからないけど)というものは、今もちゃんとあるんだなぁと思ったり、した。自然の神聖さというのは、そこに暮らしている人でなければわからないものなのかもしれないけど、それが「ルール」としてあるという意味では、社会における倫理、道徳と同じようなもの、ってとらえてもいいような気がする。

でも、その宗教の捉え方、信じるようになる切欠、体験、動機、というのはその人それぞれなはずだし(たとえそれが生まれた場所に拠る、とかでも)、その人の「信じ方」というのは、他者に理解されうるものなんだろうか?
それが宗教でなく、その人にとって大事な何か(家族、仕事、理想、なんでも)だとしても、それどれくらい大事なのか、なんて、他人にわかるだろうか?
それが仮に「神」を信仰する宗教だったとしたら、それを理解するのは「神」だけであったりしないのかしら。そして、その「神」っていうのは、その人個人の中にあるんじゃないかなー? とか、言ったら怒られるだろうか。でも、例えば「悟りを開く」とかって、そういう感じじゃないのかな、とか、イメージしている。

だから結局何か、といえば、例えば特定の宗教の信仰者同士だって、同じ考えを持ってるわけじゃないんじゃないかということ。
例えば「ゴミのポイ捨てだめ」という「倫理」があったとして、でも例えば「たまたまポケットから落ちたゴミを拾わずに行ってしまう」「ゴミ箱でないところにゴミを捨てる」「不法投棄」の、どこまでを許すか、許さないか、そういう「自分」にかえってくる問いと、つながるのではないかと思える。

ただ、私が不思議に思うのは、自分の中にある何か、ではなくて、外側にあるものを信仰しようとすること、というか、他者のイメージを受け入れるというやり方、だったりする。例えば自分の中にある、いくつかの疑問に答えを与えてくれた「宗教」を信仰したとして、でもその宗教は、これから生まれるだろう疑問に「確実に答えを与える」とは限らないという可能性を考慮しないやり方、もやっぱりあるんだろうなぁと思って、でもそれって、先に世界を限定するやり方にならないのかなぁ、とか、思う。
なので私も最終的には「一人一宗教」に賛成、というか、基本的には(とりあえず私は)そうなんじゃないのかなぁ、とか、思います。前に宗教についてちょっと書いたとき(id:ichinics:20051209:p1)とは少し考えがかわった、ような気もする。
それは例えば、こんな感じ、かな。

「ああ 彼はついに 全世界を 部屋にして そして そのドアを 開け放ったのだ」
『ロストハウス』/大島弓子

あんまり好きすぎて、この部分ばかり何回も引用している気がするので、そのうちちゃんと感想書こうと思う。