伝わらない

「分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ」*1の続きをまだ考えてる。
あのときは、そこに例えば「愛」があっても、それが特別であることと特権的であることとは別のことだ、というような感じに頭がいってしまったけど、そうじゃなくて、そもそもの「伝わらなさ」について。
伝わらない、分かりあえない、が最初にあるとする。あると思う。それは理解する気がないとかでなくて、視点が重ならないとかそういうことを含め、歴史や思想を直接的に全体であらわす方法なんて、自分自身にたいしてだって、ない。
でもたまに、自分に(もしかしたら自分だけに)理解できるかもしれないなにか、逆に相手に(もしかしたらその相手だけに)伝わっているかもしれないなにか、と出くわすことはあって、それはなんか、いろんなことの切欠になる。そして、そのなにかが自分にとって、重要なことだと思えるとき、というのが、ある。それは本読んだり音楽聞いたり、そういう体験も含まれるし、ただひとりの人に向いてることもある。
でも、その発見の「すごさ」っていうのは、なかなか伝わりにくい(二重になってしまってるけど)ことだったりするんだなぁ、と思う。そして、その「すごさ」は自分にとってだけのものかもしれないんだよね、というのが、もちろん前提としてある。
だからこそ、最初の「かもしれない」から、「伝わった」と思えるようになったときは、嬉しい。しかしそのすばらしさは、意識され続けるものじゃなかったりもして、いつのまにか伝わらなくなってしまっていたり/そもそも伝わっていなかったりもする。するんだよな。
でもそこで、ちゃんと努力したのか、といわれれば、してなかったんだろうけれども(努力が何かはおいておいて)、してなかった間も、それが「ある」とは思っていたわけで、そもそもの支えにしていたものが、実はなかった、とか、分かりあえないってことだけを分かりあってしまった、なんてこともあるわけで、それを恐れないでいることは、難しい。だから自分の判断基準を、そこにゆだねることは出来ない。私が前にもやもやしていた、「〜すべき」への抵抗感は、たぶん、そこにあるんだと思う。
でも、それでも見てみたいと思うものは、まだあって、空中楼閣でもいいから建ててみたいと思うこともある。そんでまた後悔したりするかもしれないけど、それはきっと、ずっと先の話/かもしれないし、先の話も過去になる可能性だってある。
って、そんなふうに希望だけを見ることもできる。でも、戻れるのはどこまでだろう、と同時に考えてしまったりもする。
自分が何考えてるのかわからない。ただ、したいことと放り出したい気持ちがあることだけが見えてるような気がして、それが何なのかに名前をつけたくない。うわー!
いったい、私はなんの話をしているんだろう?

一夜明けて読み直したらまたわけがわからない。要するに「わけのわからん言葉で、意思の疎通をはかりたい」っていう「KIMOCHI」の歌詞がいちばんしっくりくる感じ。なんかおかしい。五月病

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