『これがニーチェだ』を読む/その3

第一章 道徳批判 諸空間への序章

この章に書かれていることは、とても腑に落ちるんだけど、問いは何回も反転して、しまいには放り出したくなるようなところまで反転していくから、説明するのは難しい。
でも、その反転(それをメタというんだっけ?)こそが、ニーチェの「誠実さ」なんだと感じたりもした。

道徳家や僧侶や哲学者の嘘を告発する、彼のその道徳的パトスそのものは、いったい何に由来するのか。そして、彼のその道徳それ自体には、嘘がふくまれていることはありえないのか。ニーチェのほんとうに素晴らしいところは、このようなさらなる問いを自らに立てたところにあるだろう。(p37)

ほんとうにすごい、と思う。でも、そのすごさを説明する言葉が私の中にない。それでも、とりあえず今のところの理解をメモしてみる。

なぜ人を殺してはいけないのか

この章で、一番最初に扱われている問いは「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問です。私も前に考えたことがあった*1おかげもあって、とても興味深く読めました。この質問に興味がある人はこの章だけでも読んでみてほしい、というか、読んでどう思うかがすごい気になるので教えてほしい、と思う。

「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われたときに、多くの人が道徳や倫理を前提として思い浮かべ、それを疑わないのはなぜか、という疑問が、この章で書かれているニーチェの問いに重なるのではないかと思う。
その前提を通して考えるということは、その質問の指し示しているところから、目を逸らしていることになるんじゃないか? なぜならそれを思い浮かべ、問いそのものを否定するということは、その問いには含まれていない「不穏さ」を読み取っているからこその反応だから。しかし実際は、「いけない」と言っているものなんて「ない」のだ。しかし、そのことは忘れられている。

世の中のためになることをもって善とし、世の中に害を与えることをもって悪とする、これまでの倫理学説は、すでにひとつの倒錯なのではないか。煎じつめれば、これがニーチェの問いである。p29

私にはうまく言えないのだけど、たとえばこの言葉に対し、倫理や道徳の観点から批判をすること、それはつまり倫理や道徳を使って嘘をつく、ということになり得る。ニーチェが言っているのはそういうことだ、と思う。
そしてそれは至極もっともだ、と私は思う。だから、自分の中で、それを確実に善だと判断する気付きを得ること、そうして自分の経験として身に付けた規範、それだけが私の真実だ、と言うこともできるだろう。しかしそれは他者には理解され得ないものだ、という前提を含んでいる。またそこに行き着いてしまう。理解されてしまったら、そこにはまた嘘が混じるし、私の気付きに私が従うことにもまた、嘘は混じる。
うーん。でも、それでも私は、世界が私であるように、世界はあなただ、と思う。そこのところ、をどうにかしたい。でもそれもまた裏返る。

敵は私を理解しようなどとはしない。だから、私の固有性は敵からはいつも守られている。だが、同情はちがう。彼らはいつも自分自身の知性と完成を携えて私の内面深く入り込んで来て、私を理解という名の暴力でずたずたにしてしまう。同情されたとたん、私はそのことで殺されるのだ。p45

このような同情によって「羞恥」を与えることに対する嫌悪感(といっていいのか)に対しては、ただひたすらに全てを、あるがままに肯定するしかないように思う。でもニーチェはこうも言っている。

おまえと苦悩を一つにし、希望を同じくするがゆえに、その困苦をおまえが完全に理解するような、そういう者たちだけを、――つまり、おまえの友人だけを、助けよ。p50/『知識』三三八

この場合の「友人」とは誰のことだろうか? 同情を拒否しながらも「苦悩を一つにすること」を可能と考えるのはどういうことか、と考えていくと、やはりその同情の中に、道徳に基づく「嘘」を見るからこその、拒否であったのだろうかと思う。しかしその嘘の有る無しを知る方法なんて、ない。
嘘のない共感、の可能性を、私はただ信じている。それはただ、信じているだけでいいことなのかもしれない。でもそれは、信じてほしいからなのかもしれない。

例えば、映画「クラッシュ」の中で、名前がない以下の、敵ですらない扱いで犯される殺人の場面があった。そして、そのシーンを見ながら、私はこういう扱いで死ぬのは嫌だな、と思った。それもまた、共感の可能性を信じたいということにつながる、かもしれない。でも、確実に心から「嫌だな」と思っていても、わたしは、目の当たりにしている相手が「私」である可能性を考えずにいられるだろうか? ちょっと自信がない。というかそんなこと考えてる暇はないと思うけど、ともかく、そういう意味では、私は「ただ誰も殺したくない」というのが本音だと思う。それは私の性別のせい(そして「力」がないせい)もあるかもしれない。でも同時に、だれか、のためになら、なにかができるのかもしれない、とも思ったりする。どうかなぁ。話がずれた。
続きます。

*1:その1/id:ichinics:20050821:p1 → その2/id:ichinics:20060226:p3