罪悪感について/未整理

先日の罪悪感についての話に、michiakiさんから応えていただいた文章があって、その後すぐ書きかけた文があったのだけど、その後のmichiakiさんとこの流れを読んでたら、あーなんかたぶん論が緩いのは私だよね…とかビビって間があいてしまいました。でも懲りずに続きを書く。引き合いに出し続けてて申し訳ないです>みちアキさん。

だから、そこに罪悪感があるとき、自分が罪悪感を感じているときには、「自分はよい人間である」という認識と、「行動するべき場面で、しないことを選択した」という事実との両方が、必ずあるはずです。
http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20060607#1149613370

確かに、私が「揺れる」ことにうっとうしさを感じるのは、その「揺れ」が罪悪感という影となって纏わりつくからなんだろうな、と思う。
しかしそれは「自分はよい人間である」という「認識」なんだろうか? それを光に喩えるならば、それは理想でしかなく、そこにたどりつきたいと願いながらも進まずにいることを選択するのは「諦め」なのかもしれない。かといって、罪悪感を感じている時点で、悪人にもなりきれていない、つまり「良い人」になる夢を諦めきれない。

「自分は良い人間」なんて認識は、偽りの光ですよね。だって自分から「私は善人です」なんて言われても、そうですかと受け入れられるわけはない。そんなの、周囲の人間が決めることでしょう。

むしろ「良い人間」だと思われたいから、罪悪感を感じるのかもしれないな。しかし一旦良い人間になってしまったら、それを続けなければならない。これは結構大変なことだ。だってそもそもが「良い人間」ではないのだし。だからこそ私は、ある特定の人に対して善人であろうと思う時には「覚悟」がいるような気がするんですよね。でも「良い人でありたい」と思う気持ちは本当でも、「良い人である自分」は偽りだよなぁってところでまた罪悪感が影を落とす。
例えば私がmichiakiさんを酷く傷つけてしまったとしますよね? そこで私はきっと、なぜそうなってしまったのか考え、どうにかして、許してもらおう、と行動するでしょう。でもそのときには「良く思われたい」という下心のようなものもやはりあって、傷つけてしまう行動を取る方が私にとっては自然ことなのかもしれない。相手にとっての自分が、本当は「良い人間」な訳ではないのに、そう見せようとしている。そこに落ちる影も、罪悪感なのかもしれないなぁと思う。
でも、前に書いたこと(id:ichinics:20060517:p2) と重なるけど、その「行動」は「嘘」でも、その嘘をついてしまう気持ちには、 嘘がないはずだ、と思います。 そしてそこが「そのまま」なんじゃないのかなぁ、と今日のエントリを読んで思いました。