目指すべき世界とはどんなものなのか

「ココヴォコ図書館:ホモ・エコノミクス」というBさんのエントリを読んでちょっと思ったことを書いてみます。以下強調と引用はすべてこのエントリからのものです。
まず、「僕のいうことは基本的にはすべて僕だけにとって妥当な見解です」という前置きの文章がとても好きで、これを私の前置きにもあてはめつつ。

Bさんのエントリは「今日本では毎日100人もの人が自殺している」という状況を鑑み、「こんなにも毎日人が自分で死ぬような社会が、どうして立ち行くのだろう? どうして否定されないのだろう?」ということを、感傷から離れて考えようとしているものだと私は読みました。少し前に、自殺問題関連のニュースを切欠に自分が書いた文を読み返してみたのですが、あれはあれで本音だけど、自分がいかに近視眼的であるのかを思い知らされたような気がします。
まず、「自殺」という行動に至る感情の考察として、この部分はとても参考になる。

「自殺」という言葉の底辺に淀む感情は、自らへの憎悪、自己存在への憎悪というよりは、自分を圧殺する外部への憎悪であって、その憎悪の表象として自殺を選ぶというのは、ある程度理に適っているように思えます。

直感的な感想ではあるけれど、確かに、そのような傾向はあるだろう、と思う。だとすると、自殺は停止/離脱であると同時に、最後の自己顕示だといえるのかもしれない。
ただ、「自殺をはじめとする多くの諸問題に対して、心理的な重みを伴った「共感」を形成」し得ないとして、なぜそれが「し得ない」かという理由に、裕福であること、余裕があること、を挙げることには違和感があります。しかし、裕福であり、余裕のある側の人間が、深刻さの渦中にいる他者に対して共感を示すとすれば、それは「自己陶酔を満たすためのポーズに過ぎ」ず、そのような、いわばおざなりの共感で問題が消費されていくことが、この社会を継続させているというのも、薄々は理解できる。矛盾しているようだけど、そもそも「共感できる」と考えること自体が誤りなのだと私は思う。たとえそれが「憎悪」に基づいていても、理由はそれぞれだ。そしてそれは他者が推し量ることのできるようなものではない。つまり、たとえその理由を明らかにし、共感することができたとしても、それは問題の解決には結びつかず、自己陶酔欲を満たすことくらいしかできない。

そしてそのような社会の中にいる人間は、多くの自殺者を眺めて、自分の存在に悩みながらも、その社会全体を否定し改革するだけの気力をもてないままに、飼いならされています。

この気力のなさ、無関心は確かに私の中にもあり、むしろ気力をもつことを諦める方へ引き寄せられそうにすらなる。しかし、そのような力のなさ、あきらめへの憧れこそが様々な「憎悪」の行き着く先であり、直接の引き金となるのではないか、とも思う。
Bさんは、「こんなにも毎日人が自分で死ぬような社会が、どうして立ち行くのだろう? どうして否定されないのだろう?」という問題に深刻さを感じつつ、結局どこか他人事にしか感じられない理由を「多くの鬱陶しい問題を抱えつつも、僕の毎日が経済的に問題が無いからです」と書かれていた。そして段落の後にこう続けている。

すなわち、経済的な条件が整って初めて、人間的なる「上部構造」であるところの知的生産が出来るということです。そのことをしたぬままに、いくら「文学だ」とか「心の豊かさだ」と言ってもはじまらない。あるいは共感だ、世界平和だと理想を唱えてみても仕方が無い。僕らは、ある面ではクレバーにならないといけない。つまり、「経済」について真剣に考えないでは、僕らは文学やら音楽やらあるいは政治すら、考える意味がないのだと。

私個人の感覚を書いておくと、私が「毎日多くの人が自ら死を選択する」という社会の状況に深刻さを感じつつ、結局それが他人事である理由は、私は絶望していないからです。そして、それをさらに突き詰めて考えてみると、私自身が属している共同体(人間関係や責任やしがらみ、といってもいいですが)があるからのような気がします。もちろん経済的にたいした問題がない、というところも重要です。しかし、それが失われたとしても、前者に執着できれば、私は後者を改善しようとするでしょう。しかしその逆はわかりません。それは私が貧困を知らないからかもしれないけれど、もし全てのしがらみから解放されたら、頼るべきところは経済の延長線上にある文化しかないだろうなとは思う。でも、果たしてそれでどのくらいもつものなのか。
私はたぶん「経済」とは何なのかがわかっていないのだと思います。だからかもしれませんが、私はここで疑問に思ったのは、日本における「自殺」の問題と「経済」の問題を結び付けることです。因果関係はあるだろうと思います。しかし、人が社会を憎悪し、その憎悪の表象として自殺が選択されるとき、引き金となるのはむしろその選択をとめるものがないということなのではないでしょうか。それは例えば「可能性」のようなものでもいいのだけど。
もう少し個人的な、無責任な想像を書いてみます。例えば大多数が等しく貧しいような社会に生まれた場合、生きることの第一目的は「生き延びること」であったりするのではないでしょうか。そして、まあまあ満ち足りた社会に生まれた場合、生き延びる権利が容易く保証されているかのように見える社会に属している場合、人は「生きる目的」などというものを手に入れようとするのではないでしょうか。そしてむしろ、その目的の満たされなさや、社会への不満(例えば格差への憎悪)が、知的生産と呼ばれるものを産むのではないでしょうか。知的生産という言葉は私のボキャブラリーにはないので、ここで私が想定しているのはカウンターカルチャーのようなものです。60年代のそれというよりは、例えば、労働者階級の音楽であったパンクが支持されることで、バンド自身がが階級をのぼってしまい、その動機を失うというジレンマのことを考えたのだけど、かといってそれは維持されるべき動機なのかどうか。どこに視点を置いて考えるかによってまったく異なるだろう。
ただ、そこまで考えてみると、全ての人が等しく満ち足りた社会などというものが不可能な案件であるのと同時に、それを目指す中で様々な解釈として生まれてきたものを私が受け取ってきたということがだんだんわかってくる。
そして、ある程度の満ち足りた生活を送っているものが、ある日それを続けられなくなるという状況に陥ったとして、手をのばしつかむことの出来る場所のなさが引き金となることは容易に想定できる。私はその「場所」に共同体や文化のようなものを見ていますが、それは極めて個人的な問題なので、社会問題として扱ってどうこうできる問題ではないとも思います。
そこで個人としてではなく、社会として出来ることといえばシステムの改善しかなく、それが考えられるべき「経済」なんじゃないか。社会が見るべきは引き金ではなく、状況の方なのではないか。Bさんのエントリはそういうことを言いたいのではないか、と思った。
ユートピアは存在しなくとも、目指すべき世界であることに間違いはない」とユリカンも言っていたけれど*1、それを目指すことが可能性にはならないだろうか、なんてちょっとこれも他人事できれいごとのようだけど、思った。
だから私はBさんのこの文章に希望にも似たものを見るのだと思います。

僕らは弱い人間であることを自覚すべきです。そして、「どうしたって人を助けたり、自分よりもしんどい人間に共感したりは、究極的に不可能なのだ」ということを自覚する。その上で、僕らに出来うることは、場当たり的な感傷をとりあえず横において、クレバーになることではないでしょうか。アジ演説に亡国論、不安をあおるだけの終末論からは身を離すべきです。それらは深刻に考えているように見せかけて、実は単なる自己主張であり、党派主義や選民思想の変形でしかありません。僕らはそのような言説から身を引き離して、この国や世界を成り立たせているシステムである「経済」なかんずく、「資本主義」とは一体何なのかについて、各人で出来る限り理解を深めることが必要なのではないでしょうか。

もしかしたら、憎悪もまた、その先の新しい秩序さえ期待できるなら「つかむべき場所」として誰かの力にはなるのかもしれない、と思う。

正直、私にとって世界は広すぎて、社会と自分のことを考えるといつも混乱する。いつだって欲しいのは、もうちょっと先まで行きたいと思える何かで、それが安定供給されればいいなと、思う。しかし供給されないことで、社会を憎悪できるかというとその自信もない。私には怒りが足りない。ないわけじゃないんだけど、そこへエネルギーを使うことを諦めてしまっている。でも、それは私個人の世界でのことであって、それもまた今ある社会に支えられてるということには、何か矛盾したものを感じる。よくわからない。もっと考えたい。
とにかく思うのは、かしこくなりたいなぁ、ということだ。

*1:ザ・ワールド・イズ・マイン』の台詞です。→ id:ichinics:20010101