「それも またよし」と呟く

空中キャンプ(id:zoot32)さんの、「嫌われ松子の一生」の感想を読んで。
映画の感想は前にも書いた*1けど、「嫌われ松子の一生」は、川尻松子という女性の転落人生を描いた小説を、コメディタッチで映画化したものだ。原作はまだ読んでいる最中なのだけど、映画とはかなり温度差があって、別物のように感じる。原作を読んで「悲惨すぎて笑っちゃった」と監督は語った。確かに悲惨な話だ。しかし原作を読んでいると、映画版の脚本は、より「松子の自業自得」に見えるようにアレンジされていたんだとわかる。だってそのほうが「わかりやすい」もんね。
彼女は確かに不運だったし、ばかだったと思う。でも、それはあくまでも第三者の視点であって、松子にとっては笑い事ではなかったんじゃないかって、そこがどうしても気になってしまうのだ。というか私が松子だったら、きっとそう思う。
そもそも、彼女の不幸とは何だったのか。むしろ幸せは何だったのか。その質問に、松子はどう答えるだろう?

わたしは不幸を感じたとき、こうおもう。「これもまたよし」と。そしてきっと松子も、いろいろな局面で、これもまたよし、と感じていたにちがいない。不幸は、きっとさまざまな受け取り方ができる。これもまたよし、と不幸を受け止めたとき、すこしだけ風景がちがって見えるはずである。
空中キャンプ:まげてのばして ─ 映画「嫌われ松子の一生」を考える

「これもまたよし」という言葉で思い出すのは、「ジョゼと虎と魚たち」のワンシーンだ。あの映画の中で、ジョゼは今の幸せが、いつか自分の元を去っていくだろうことを感じ、「それもまたよし」と呟く。あれはジョゼの強さだったと思う。自分しか頼りにならないのは知ってる、大丈夫、最初から孤独だった。でもちゃんと幸せも知ることができて、よかった。そういう諦めと覚悟の入り混じった肯定だったように思った。
しかし映画の松子にそれが言えただろうか? 私はそうは思えない。そして、もしそれを言えていたなら、松子はもっと自分を肯定して「うまれてすみません」なんて言わずに、生きられていたんじゃないかと思ってしまう。
同じ失敗を何度も繰り返しながら、彼女はずっと自分が何を欲しいのか、見えてなかったんじゃないか。私にはそう感じられた。ほらそこに、あるのに、っていう感じ。私はそれがかなしかった。

もちろん、映画を見た人それぞれに、それぞれの松子像があると思うので、これは私の印象に過ぎない。そしてその印象も、まだうまくまとまらない、もやもやした部分があるのだけど、それは原作を読みながら、ゆっくり考えようと思う。
ただ、どんなに花や歌でコーティングしても、悲惨を「笑っちゃう」ためには、松子自身が笑えるように描くしかないんじゃないかなと思う。松子自身が「これもまたよし」と、そう言える場面があればよかったのにと私は思う。もしくは、もっともっと身勝手にふるまって欲しかった。
そして、私の人生も「またよし」と言えるのは私だけだ。そして、松子じゃない私は松子の人生を判断できない。ただ、見ていて落ち込んだり悲しくなったりするのは、彼女の中に自分を見るからなんだと思う。

この落ち込み感は何かに似ている、と思ったら「リチャード・ニクソン暗殺を企てた男」を見たときの感じ(id:ichinics:20050618:p1)だった。