べきだ、は、ずるい?

ルールは守るべきだ、というのは、守らないのはずるい、ということなんだろうか。
善悪の二種類に分けると混乱することも*1、ずるい、ずるくない、で考えると、場の協調圧力(?)みたいなものがわかりやすいかもしれない。
そして時に、守らなかった理由(対価)によって、ずるくなくなることがある。例えば高価なものをただで手に入れることをずるい、という。でも、それに対価(例えば、遺産相続という理由や窃盗に対する罰や抽選などいう平等性)があることによってずるくなくなる(ような気になる)。
労働の対価としての給料とかも同じか。とすると、これって何とか主義なのかもしれないけど、ともかくその対価の基準は曖昧だけども、どちらが「より多く」払ったかとか、皆が払いたくない場合に、払った人がルールの外に出る感じとか、ずるさが多数に供給されることによってずるくなくなるとか「つりあう」ことを求める(ように感じる)のって何でなんだろう。
そして、善悪でも同じだけど、ずるい/ずるくないと「言っている」のは誰なんだろう?
そこでは常に「何か」を媒介にして向き合っている集団と自分がいる。そして自分がその当事者の場合、「何か」を見るのか集団を見るのか。集団を見る方が「抑止力」になると信じられているような気はする。でもそれはあくまでも「抑止」のためであって、その価値が自分にかえってくる問題だとしたら、「ずるい/ずるくない」は考慮に入れる必要があるんだろうか。ないんじゃないのかな。ただ、自分の自分のための価値判断が曖昧な場合は参照するのもいいと思うけど、もしかして、その逆、つまり「ずるい」ことを望んでした場合に感じる集団との違和を罪悪感と呼ぶのかもしれないって思って、それはなんか違う、ということをいいたいんだった。うまいこと言えないんだけど、これは集団のそれでなく、だから何も抑止しないということ。

*1:id:ichinics:20060605:p3