だめに決まっているじゃないか、と答えることの危うさ

世の中には、議論することそのものが、無意味でむなしい問題というものがある。それはたとえば、人には自殺をする権利があるのか、また、人を殺すのはなぜわるいのか、などであり、わたしはこうした議論を真剣におこなっている者を見るたびに、なにやら憂鬱な気持ちになるのだった。(略)こういった問いを発することが、なにやら重要で、真摯である、とでもいいたげな態度がいやなのだ。
「空中キャンプ:自殺なんかしたらだめに決まっているじゃないか」

そういった問いはここでも何度かあつかってきたので、私も「いや」に含まれるのだなぁと思うとちょっと悲しい。私は「空中キャンプ」さんの文章のファンだし、こうやって反論めいたことを書くのは心苦しいような気もするのだけど(何だそれは)、でもそれはやっぱり、「だめなものはだめ」ですむだけの問題じゃないと思うのだ。もちろん、そう考えることは自由だけど、その問いを切実に発した人に対してそう答えることはしたくない。

例えば「人を殺すのはなぜわるいのか」という問いに対し、だめなものはだめ、と答えるなら、なぜこの国には死刑制度があるのだろう? 社会に順応できない極悪なやつは殺してもいい? でも、殺人を否定する人間がそれを判断するということには矛盾はないのだろうか?
社会のルールをやぶったものへの罰としてもっとも有効なものが「死」であるというのはおかしい、と私は思う。しかし一方で、たとえば家族が被害者となったことで、加害者を殺してやりたい、と願う遺族の気持ちも想像はできる。私も同じ立場に立たされたら「極刑を望む」と言うかもしれない。
ただ、もしも、真に道徳的な感情を育てようとするならば、それは禁止されているからしてはならないのではなく、心から、命を尊ぶということを教えなければならないのではないだろうか。(そして「だめだからだめ」も本来その延長線上にあったのではないか?)
私が生きるために、食べ物となる動物や植物が死ぬ、という構図が最も身近なものだろう。私はたくさんの生き物の犠牲の上にある。そう考えると気持ちが滅入る。滅入るということすら偽善めいているような気がする。殺してはいけないではなくて、私はもうたくさん殺してきたのだ。

自殺についても、だめだから、しちゃいけないから、が有効な相手もいれば、それが逆に追いつめることだってある。権利がある、と思うだけで、それは今でなくてもいいのだ、と思える人だっているだろう。
だめだからだめ、というだけでは留められないほどの人がそれを(本望ではなかったとしても)望んでいる現状があるからこそ、だめだからだめ、以外の言葉や道筋や物語が、必要とされているんじゃないだろうか。
その言葉として、私には今のところ、あなたにいてほしい、ということ以外に思い付かないし、つまりそれは万人に有効な言葉ではないのだけど、考えていきたい、と思っている。
もちろん、考えなくてはならないからではないし、唯一の答えを探しているわけでもなく。
実際に言えることなんて「まあとりあえずうどんでも食べよう」くらいかもしれないけどね。