ギュンター・グラスの告白

ichinics2006-08-15
Bさんのところで、ギュンター・グラスの告白についてのニュースを知ったので(http://anotherorphan.com/2006/08/post_360.html)、本棚で埃をかぶっていた彼の詩集を取り出した。詩を読むなんて、ずいぶん久しぶりだ。

さて、ここでR・A・シュレーダー氏にお尋ねする。どのようにしてあなたはこのぼくを、つまり過去の時代にあなたの言葉通りに幾度となく「ドイツの誓い」を唱えてきたこのぼくを、そして今もまるで不似合いな折に「聖なる心」に対するその誓いがびっこを引きふらふらとよぎっていくこのぼくを、どうやってまさしくその「誓い」から解き放ってくれますか、と。
「わが非愛好詩」

この文章はグラスが33歳の頃に、自分が愛好「しない」詩についてというテーマで、「ドイツの誓い」という詩を取り上げて書かれものだ。その詩の一節にはこうある。「わたしたちのこの誓いは、星に向かって立てられる。/星をめぐらせている神がこの誓いを聞こう―― /外(と)つ国人が、あなたの王冠を奪う以前に、/ドイツよ、わたしたちは、枕を並べて討死していよう。」なんだかどこかで聞いたことのあるような言葉だ。
この詩に対するグラスの思いは、最初読んだときには、ある種普遍的な、戦争を経験した人の、その後のもののように感じられた。そしてそれにしては少し、堅いもののようにも思えたのだけれど、彼の告白を知った今、より、深く感じるところがある。
この詩集には、H・W・リヒターによる「ギュンター・グラスの思い出」という文章も併せて収録されている。しかしこの文章は、単なる思いでというよりは、グラスが政治に傾倒していくことへの困惑と警鐘が目立つ。

数年後、ギュンター・グラス自身から進んで選挙演説をして回るようになった。その真意が何であったのか、私には今もって判然としない。本物の政治的確信に基づいてなのか ―― たぶんそうだったのだろうが ―― それとも、この方面での自分がどこまで伸びるかを自分自身確かめようとしてか、つまり、自分の素質と才能がこの方面でどの範囲まで及ぶかを確かめようとしてか?
「ギュンターグラスの思い出」

この疑問についても、ある程度、想像がつきやすくなったのではないだろうか?
例えば ――グラスの政治への関わりは、その「誓い」に深く身を沈めてしまったからこそ、そこから解き放たれるための個人的な思いに端を発していたのではないか。もちろん、これは少々感傷的な見方に過ぎるかもしれないが、ともかく私はこのニュースを読んで、そんなことを考えた。
ノーベル文学賞返還? その言葉の馬鹿馬鹿しさは、遠くの国にいるからこそ見えることなのだろうか。それとも、時間か、それとももともと見えないものなのか。フィクションである作品に対する評価が、作者の個人的な告白によって損なわれることなどあるのだろうか? 社会的に抹殺される可能性はあったとしても、それは作品に対する評価とは別ものだろう。
そういうこととともに、罪や過失というものは、永遠に消えないものなのだろうか、というのが気になる。いつまでたっても反省しない人のことはとりあえずどうでもいい。もちろん、そういう人にも興味はあるけれど、罪の大小を問わず、それはどうやってもうめることができないものなのだろうか? 赦すことができるのは、やっぱり神的なものだけなのだろうか。
同じ人でも、いつでも同じ判断を下すわけではないのだ。十年前の自分と、今の自分は他人だと感じる自分にとっては、十年前の自分が、大きな罪を犯さないでいてくれたことに感謝するべきなのかもしれない。
自分は死ぬまで自分であるとともに、常に変わっていくものだ。そして、たまに、大きく変わる。スモモの実にあたったりして。
それもすべて、日々の小さなステップが引き起こすことなのだけど。

思いもかけずサクランボがみのった。
ぼくはサクランボなどというものが
あることを忘れていて、
「サクランボなんて見たこともありません」と公言していたのに、
その見たこともないサクランボがみのった、思いもかけず、ありがたいことに。
 ―
スモモの実が落下してぼくに命中した。
誰が思うだろう、スモモの実が落下してぼくに命中したために、
ぼくの人間が変わったと。
ぼくはそれまで落ちてくるスモモの実に一度もあたったことがなかった。
wandlung(部分)


この詩集、はまぞう見たら、アマゾンであつかってないみたいだ。BK1でも在庫ないみたいだし(http://www.bk1.co.jp/product/1178215)絶版なのかもしれない。残念。