ユナイテッド93

監督:ポール・グリーングラス
2001年9月11日、ハイジャックされた4機のうち、唯一目標へ達することなく墜落したユナイテッド航空93便を中心に、あの数時間の出来事をほぼ時系列にそって描いた映画。
この映画には、主人公がいない。それはつまり、制作者側の意図のようなものを、なるべく見せないように、あたかもそれがドキュメントであるかのように、作られているということだ。見覚えのある俳優は一人も登場しないということも、その演出のあらわれだろう。監督はこれを「ドキュドラマ」と称している。
それに近い言葉として思い浮かべた「ノンフィクション・ノヴェル」と称されるカポーティの「冷血」では、登場する多くの人に筆が割かれているけれど、そこには作者のペリー(加害者の一人)への感情移入が垣間見える。一方、この映画では制作者側の感情移入のようなものは、極力排除されているように感じる。
どちらが正しいとか良いとかは一概には言えないけれど、現実に起きた事件を映画化する手法として、最も危ういと思われるのは、それがあたかも現実であるかのように見せることだと私は思う。そしてこの映画はそれに近い。
ではなぜ私はこの映画を見て、危うさよりも、この手法をとったことで成功している、と感じたのか。

この映画を見ていて、特に印象に残ったのは、管制センターや航空指令センターでの混乱だった。誰も経験したことがない事態を前に、誰が決断をするのかをまず決めなければならず、情報が錯綜し、その間に新たな犠牲が生まれる。
この圧倒的な緊張感と無力感は、映画の全編を覆っている。
もちろん、2006年にいる観客には、これから起きる事態が何であるかわかっているし、全ての場所での出来事を俯瞰的に見せられる映画だからこそ、その混乱の中から、一本の情報を汲み取ることができる。
ただ、この視線こそが、現実においては常に欠けている視線であり、現実に生きるものには永遠に届かないところにあるものなのだ。そして、それはとても当たり前なことであると同時に、すべての人の上に平等にある不自由さでもある。アメリカ大統領もハイジャック犯も、その不自由さからは逃れられないという意味で等しい。
歴史に何か有用性があるとしたら、まずその不自由さを思い知らせることにあるのではないのか。それから、管制官と乗客とテロリストの呟く「神」もまた、現実に欠けた存在として等しいということ。
その、現実には存在し得ない視線こそが、この映画で描かれていたことだったのではないかと思う。

最後に、この映画は「ココヴォコ図書館」さんのレビューを、最初の数段落読んで見ようと決めたのでした。感謝。ただ、見終わってから読もうと思っていたレビューが、もう読めないのが残念で仕方ないです。