「<私>という演算」/保坂和志

この本を手にとった時に抱いたイメージは、たぶん演算というよりは乗算に近く、それは私の中で1+2が1と2の関わりであるというイメージであるのに対し、1×2は1そのものが変化してしまうことを指しているように感じられるからだった。もちろんこの言葉遣いは私の誤解なのだけど、そう思ったのは私が<私>というものは日々掛けられることで変化していってしまうものだと思っていたからで、それは別に足し算でも引き算でも意味合いはかわらない。常に何かが加わり、行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、というのが私が<私>というものに対して抱いていたイメージであり、この本に書かれていることなのではないかと予想したことだったのだけど、それはもちろん的外れなものでした。
以下長々と感想というか疑問を書くけれど、この本の紹介としてはまったく役にたちません。

<私>という演算 (中公文庫)

<私>という演算 (中公文庫)

冒頭の「写真の中の猫」では「自分が生まれるよりずっと前に生きていた犬や猫がいた」ということと、その言葉の複雑さが複雑さゆえにリアルであるというところから、それが「郷愁」という一言で片付けられない理由を

かつてそこにあった時間、あるいはその時間があったからこそ起こった動きや話し声や笑いというようなさまざまなことが、この世界に残らないで物理的に消えてしまうということは、本当にあたり前すぎるほどあたり前のことだ。p22

という話になっていく。この一言は実際あたり前のことなのだけど、それは私の抱いていた乗算のイメージとは異なるものだった。
次の「そうみえた『秋刀魚の味』」もまたとても面白い文章だった。保坂さんは『秋刀魚の味』という映画がとても好きで、何度も繰り返し見ているのにもかかわらず、ある錯覚をきっかけに以下のように思ったという。

ぼくにとって小津安二郎の映画が、一般には完璧主義と思われているのと反対に、映画というものが本当のところバラバラに撮影したフィルムを意味にそってつないでいくことであたかも統一されているかのように見せているにすぎないのだということを、完全に覆い隠そうとはしていないんじゃないかと思うようになったからだ。p34

これはとても興味深い感覚だと思った。しかしその興味深さは映画の構造の再発見というところにあるのではなく、記憶というものも、実はそのような側面に基づいているのではないかと思ったからなのだけど、話は「無人格の記憶の視線」へと移っていく。ここは「カンバセイション・ピース」で描かれていたことと重なるものだけど、私にはまだ理解できない感覚だ。ただ、もしもそのようなものがあるのだとしたら、それは神のようなものではないのか、と思う。
そして次の「祖母の不信心」では、頑に不信心であった祖母の話が描かれていて、しかし彼女がなぜ不信心であったかは、結局のところわからないのだが「それでもわからないと思うことが、「わかっている」という状態を指すのかもしれない」と続く。
「十四歳…、四十歳…」では「新世紀エヴァンゲリオン」を見て、これが「ぜーんぶ夢でしたッ!」で終わったっていいじゃないかという思いから

「もし、ある朝目が覚めたら十四歳に戻っていて、小説家としてまあ順調にやっていることとかが『ぜーんぶ夢でしたッ!』になったとしたら、おれはそっちの方がいいと思う」p68

という考えを抱いたことが書かれている。そして、その思いは、「今の自分を好きか嫌いかとか、やり直したいかどうかということと」同じではないのだと書かれている。この感覚はどういうことなのだろう、と注意深くなって読み進めていたのだけれど、そこの部分についてはまだ「重さ」としか書かれていない。ただ、次の「あたかも第三者として見るような」で書かれている、自分が生きていることと、この世からいなくなることのつなげ方のわからなさ/つながらなさについてを読んでいると、だんだんと何かに触れているような気分になってくる。チェーホフの小説で繰り返し描かれたモチーフについて

その切実さとは、たとえば、「私の心にあるもの」と「あなたの心にあるもの」が同じであることの証明への切実さなのではなかったのかと思う。p100

と書かれているのだけど、例えばこのわからなさとは私と作者の距離であり、私と十四歳の私の距離でもある。しかし、それを確認する手段としてはやはり第三者の視線が必要になってくるのではないか。
次の「閉じない円環」に出てくる「人間の頭にもう一つ小さい頭が侵入しているイラスト(略)横向きの人間の頭の上のところで、線が内側に曲がっていってもう一つの横向きの頭が入り込んでいる。」というイラストのイメージはもっと近い、例えばここで書かれている「抱いている赤ん坊が笑うと母親の方も嬉しくて笑う」という関わりのことだと思う。
その部分も興味深いのだけど、第三者の視点というのは、そういうことではなくて、次の「二つの命題」で書かれている「自分がこのような時代に生きていることは驚くべきことだ」と「自分のような人間はいつの時代にもいたんだ」という感覚について考えるときに、後者の方を思う視点こそが「今ここ」を否定する方向へ働き、かつ「夢でしたッ!」を肯定するものなのかとも思う。ここは、次の「<私>という演算」で書かれている、

<私>についてこうして書いている<私>という存在は、いつか<私>がいなくなったあとにかつていた<私>を想起する何者かによって<私>の考えをなぞるようにして書かれた産物である、というような言い方でもいい。p156

という箇所のほうが、それまでの疑問の先につなげるにはしっくりくるような気がするけれど、そのまま受け入れるにはどうしてもためらいがある。
最後の「死という無」に、かつて保坂さん自身が「小説は三人称でなければならない(略)作品に『死』を取り込むことができるのは、三人称で書かれた小説だけだ」という言葉と出会ったときに、それを承服しかねることによって感じられた「きしみ」によって、その言葉にはリアリティが伴ったと書かれているのだけど、私の中にある、<私>がいなくなったあとに<私>を想起する何者かもまた<私>でありうるという考えに対するためらいは「きしみ」ではなくて、私の視線の重さを気付かせるものなのだと思うのに対し、「「死」は「生」の終わりとは違う(p175)」という言葉の周辺部分を読んだ時には、明らかなきしみがあって、だからこそリアルに感じられもした。この「死」にまつわる考えこそが、私のためらいの元であり、視線の重さなのだと思う。
「あたかも第三者として見るような」では死について

例えば「生」という状態を四次元の「何か」が三次元の空間に一定期間顔を覗かせている状態と考えることもできなくはない。その「何か」を「人間が死と言う言葉をあてている連続体」といってみてもいい。p96

と書かれていて、この言葉の方が私の感覚にはしっくりくる。しかし「私は日々死んでいる」と言葉にしてみると、それはやはり過去が「物理的に消えている」ことの証明でもあるような気がして、それと「死」はやはり別のものだと思うのだった。そうしてあっさりと「「私の死」だけが「死」である」という言葉に頷いてしまったのだけど、だからといって「生」の終わりとしての「死」を否定する気にはまだなれないのだった。そしてその気持ちは「ぜーんぶ夢でしたッ!」を、いいな、と思えないこととも重なっている。なぜなら、14歳の私と今の私はやはり他人であり、この私が14歳の私の見た夢であったならば、それは私が存在しなかったことになると思うからだ。しかしそのことを私が知らない状態、つまり今の私の死としてそれがあるならば、別にいいか、とも思うのだった。
ここに、私が最初に「<私>という演算」というタイトルを見て思い描いていたことの理由があるように思うのだけど、それは単に私が<私>であるということにこだわり/縛られ過ぎているということなのかもしれない。それがどういうことなのかは、もうちょっと、考える。

上に挙げた、9つの短編がこの本にはおさめられている。ここに書かれた思考の流れは、あちこちに飛んで行くようでありながら、実は次々に現れる疑問に触れるようにして綴られている、ということに読み終えてから気が付き、だからこそ私はこの本を読みながら多くのことを考え、本と会話しているような気持ちになるのだと思う。しかしこれを読みながら私が考えたこと、疑問に思ったことにはまだ答えは見つかっていないし、きっと作者のそれとは重なっていないのだろう。まったく理解できていない可能性もあるけれど、やはり楽しい読書だった。

「真理」というものは、具体性を欠いていて、それゆえに証明不可能で、実感だけがあるものなのかもしれないと思う。そしてそれならば「真理」というものは、それについて考えるプロセスは別として、それを心理と思う人以外には何も価値のないものということなのかもしれないと思う。p139


読み途中の感想(id:ichinics:20060903:p2)