LOFT

監督:黒沢清
恐がりなので、いつもなら「恐い」映画を映画館で見るなんてことはしない、というのもあって、黒沢清監督の映画を劇場で見たことはなかったのだけど、今回はアンテナに登録させていただいてる方が一斉に「LOFT」の感想を書かれていたのに後押しされて見にいった。
「恐い」映画が苦手なのは、静かな場面が続くと、その後に「驚く」場面がくる、と身構えることに疲れるからだと思う。「LOFT」はまさに、そのような息の詰まる場面の連続だったし、正直びびりっぱなしだったのだけど(耳塞いでたシーンもある/隣の人も塞いでた)、その構成はむしろあまりにも「定型」に思えて、だからこそこれは「ホラー映画」ではないと思ってしまった。
ここで「定型」と書いたのは、それが安易だとか面白みに欠けるとかいう意味合いではない。むしろ、この映画はとても丁寧に演出されているし、画面におさまる全てに神経がゆきとどいていることで、カメラの視線に物語の登場人物としての「意志」を感じる。
そのフレームには、常に何か障害物が移り込んでいる。そのことによって、登場人物と、カメラ(視線)の間に、空間があることが強調される。室内の場面では手前の部屋の中から廊下に立つ人物を写し、その背後にも暗い部屋が移り込んでいるという構図が多く、しかもいたるところに鏡やガラスがあることによって、常に何かの気配を残す。視線というものは、何もないところを写したりはしないはずだ。そこが写されているからには、そこに何かがいるのだ。だからこそ、つい登場人物の背後に広がる空間に目を奪われてしまう。似た効果として、一人きりでいる登場人物を真後ろから映す場面も強烈な印象を残した。三人称で描かれる物語に、そのような視点はありえないし(その場合、顔や動作の見える位置に立つはずだ)、ということは、その視点に立つ登場人物が「いる」ということを意味する。
逆に、ある場面では、見えるはずのものが見えない。不自然にフレームアウトしていることで、心地悪さを感じる。見えないところで、それが動いているんじゃないかと疑心暗鬼になる。
そういった効果の全てが、計算され尽くした、「ホラー映画」の定型に感じられ、しかしその演出の方向性が、どうもホラー映画のそれではない。といっても、ほとんどホラー映画を見たことがないので、比較できないのだけど、つまり怖がらせようとしていないように感じるのだ。「くる!」という恐怖の高まりは、時に肩すかしを食らうし、恐怖を裏付ける「物語」の存在も宙に浮いたもののように感じられる。それは、もしかすると、この映画が観客の「こうくるはずだ」という身構えを見返しているからなのかもしれない。
しかし、そのような客観性よりも、その「視線」の濃厚な存在感のほうがずっと印象に残る。それは画面に映ったアレでもソレでもない。もしかしてずーっといたコレなのか、という解釈もできるだろうけど、全ては闇の中火の中沼の中だ。