「世界をよくする現代思想入門」読み途中

前読んだ「「私」のための現代思想*1の著者の「世界をよくする現代思想入門 (ちくま新書)」を読んでます。面白い。あちこちで目にするあの言葉やあの名前は、そういうことだったのかって思えるとこが多いのも楽しいんだけど、なんかすごく読みやすいので、自分が大きな勘違いしてそうで恐いな。
今日読んでて気になったのはここ。

私たち人間は、世界を「受動的に」認識しているわけではありません。世界をどのように見るかということは「世界をどうしたいのか」ということに依存しています。私たちは「世界をあるがままに認識すること」などできない存在です。人間の「世界認識」は、「世界をどうしたいのか」という方向性(志向性)があって、初めて決定されるものです。
「世界をよくする現代思想入門」p62

最近考えてた自由意志の話で、私のイメージに近いのはこれかなぁって思った。
このすぐ後に「言語ゲーム」の話があるのだけど、「私たちはそれらの語を「ある状況やある文脈の中で、適切に使用できる/p64」だけであり、「使用」することは「言語という制度に従うことである」ということを否定できないとして、しかしその「制度」の「志向性」というものは、あるんじゃないだろうか。
「言語」という言葉の捉え方が間違ってるのかもしれないけど、私が「意味」という言葉で言いたかった(id:ichinics:20060920:p2)のはその「志向性」に近いと思う。そしてこの志向性というのは、常に利己的に(それが利他であったとしても己に利であるような)働くはずなので「自由(束縛されてない)」っぽいものに感じられるのではないかと。その志向性は、例えば自分の「世界」と言い表してもいい。
で、一回しかないはずの行動/現象は、「言語」によって、法則に従いソートされていくことで補完されていく。1+1が2になるという「約束ごと」みたいに? んー、でもそれが法則に基づいているなら、自分の中の制度を「あらわす」ことも可能なのかな。どうやるんだろう?
何をいってるのかわからないと思いますが私にもわかりません。混乱してきました。

ところで私が今までその意味を知らなかった形而上学とはこんなものだと解説されています。

「あの子が泣いている」ということの「意味」は、その現象をどんなに細かく吟味しても、知ることはできません。(略)私たちが観察しうるのは、何らかの物理的現象でしかないのですが、実は、物理的現象が何らかの「意味」に変換されることによって、初めて「存在する」ことになります。p23

それじゃあ何でもありじゃないかと思ってしまうんだけど違うのかな。とりあえず「意味」って言葉の意味するところを理解するのが一番難しい気がしてきた。