バイバイ/ムイボニータ

真剣な顔でバイバイ、と叫んでいる子供がいた。二歳くらいだろうか。バスの中でのことだ。母親の腕の中で活きの良い魚みたいに跳ねながら、バスを降りてもまだ、バイバイ、と繰り返している。車内の女性が小さく手を振った。つられて手を胸元に挙げた女性もいた。
その音を言葉として認識する私にとって「バイバイ」は別れの挨拶であり、だからこそ手を挙げるという仕草の意味もわかるのだけど、あの子供にとって、バイバイはまだきっと「音」でしかない。なぜそう思うかといえば、その音と表情や目線が一致していないからであり、そうすると言葉は音だけで成り立っているのではないのだと思う。
あの子供にとって、バイバイはまず、手を振ってもらえる合図としての音として認識されるのだろうか。そう考えると「音と意味が一致する」という法則を知るのはいったいいつになるのだろう?

「ラモンターニャエスムイボニータ」というのは今日友達にならったスペイン語のフレーズで、聞けばなんとなく「ラ/モンターニャ/エス/ムイ/ボニータ」なのがわかる。それは音に意味があるということを経験上知っていて、しかもそれを組み立てるときに、なんらかの法則があって当然だと考えているからなのだろう。
そういうことを改めて考えると、言葉というのは、道具なんだなと思う。トールキンが作り出したというエルフ語のように、もとはきっと誰かが考えて、使いはじめたものを、皆で使ってるなんて、よく考えたらすごいことだ。
そして、道具というものは、使い方があるものなんだなと、思う。だからこそ、風景や、気持ちや、使い道のないものについて、考えることもできる。ありがとう言葉。
言葉がなかったら、私は自分の思いを自分で理解することすら、できなかったのかもしれない。