雑然と宗教について

「極東ブログ:ペンシルバニア州アーミッシュ学校襲撃雑感」にて、ペンシルバニア州にあるアーミッシュの学校に銃を持った男が侵入し、少女三人が殺害され、犯人の男が自殺したという事件を知った。日本での報道は見ていないけれど、つい先日、アメリカの人と話をする機会があって、そのときなぜか宗教の話になり、「ローリングサンダー航海日誌」でディランがアーミッシュの村へいく箇所を読んでからずっと気になっていた彼等の生活について、質問したばかりだったので、少し気になった。
話をしていた彼自身は家族ともにカトリックらしいのだけど、アーミッシュについても詳しく、説明の口調には、どこか尊敬の念のようなものが、あったように思う。
彼が言うには、アーミッシュの家庭に生まれた子供にも、宗教選択の自由はあって、16歳までは村で暮らし、その後に選択をすることができるらしい。しかしほとんどがそのままアーミッシュとして生きることを選ぶというのは、それを拒否したばあいに村から出ていかなければならないからだと思う、と彼は話していた。
彼自身はカトリックで、なにかのメダルのようなものを身に付けていたけれど、自分が本当に信仰してるのか、自信がないといっていた。親もカトリックだったから、自然とそうなっただけで、自分がどうなのか、いまいちわからない。アーミッシュのようなストイックな生活は、自分にはできないが、どことなくあこがれと言うか後ろめたさというか、その辺は英語がわからなかったのであれなんだけど、ともかくアーミッシュに対してはそういった複雑な感覚があるという。
その感覚は、日本の多くの無宗教の人に近いのかもしれない。どこかで神のようなものを信じてはいるけれど(切羽詰まって「かみさま!」と思ったりするような/ばちがあたった、と思ってしまうような)、それを宗教とは意識していない感じなんだろうか。
想像でしかないけれど、いつか、大きな宗教というものが自然と消えていくときがくるとしたら、世界はどんな感じになるんだろう。
想像してみても、フラットになるとは思えなくて、そうすると、大きな宗教っていうのはもう、宗教というより、習慣なんじゃないか。