私の外側

先日書いた「「自我」とか「主体」とかって何なのか」(id:ichinics:20061014:p1)という文に対し、michiakiさんとmeltyloveさんからトラックバックを頂いた。ありがとうございます。それで、二人とも「世界をよくする現代思想」を読んだときに、奇しくも似たようなところでひっかかっていたとのことで、それぞれの書かれていることでまたちょっと考えが回ったりもして、とてもうれしかった。本の感想などを読んでいても、それはいつも感想の一部であって、その一部の中で、「同じ本」を読んだんだ、ということを感じられるというのは、あんまりない。そして、それがあると、たとえ真反対の考えであっても、やっぱうれしかったりする。というわけで、ちょっと考えたことを書いてみようと思います。

さて、私が高田明典さんの本を読んでいるときに(といっても二冊ですが)一番ひっかかるのは、たぶん『「私的言語」が存在しないということは、「独我論」が成立しえないということ』というのを前提においているところにあるのだと思います。哲学の用語をおおまかにすら理解していないで使うのはためらわれるのですが、つまり「私的言語」の否定がなぜ「独我論」の不成立になるのか、というか「私的言語」ってほんとにあり得ない? というようなことにひっかかってるのかもしれなくて、このあたりはちゃんとヴィトゲンシュタインの書いたものを読んでみたいです。(でも、全集しかないのかな)
ともかく、私は最初に目から鱗だった哲学の本が永井均さんだったせいか、なかなか独我論を手放せないでいるみたいです。というか手放す気はとりあえずなくて、でも私の思っている独我論は哲学でいわれているそれとは違うかもしれない、とも思う。ここはまだ、うまく言葉にできない。

「私」とはただ「私」であって、他の方法で言い表すことは難しいと思います。無理に言うなら「在る」という感覚そのものかなぁと思う。「“私が”在る」じゃなくて「在る」。
http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20061018#1161104819

この言葉の意図とは違うかもしれないけど、私にとっての「世界」は、例えば、私が世界を見る時に、いつもあって、でも見えない光源のようなものが、属性の束としての「私」以外の何かが(仮に<私>としてもいい)あるように思う。その場合、属性の束は影のようなものだと言えるかもしれない。これが

けれど、結局のところ『言語化すること』が絡まなければ、超越確実性言明なんて存在しないようなもので、だから『根拠』が必要になることもなくて、結果として『自我』はまるっきり絡んでこない。けれど『主体』というのは多分このあたりでは消えないのだと思う。だって『主体』は『世界』を引受けるものだからだ。
http://d.hatena.ne.jp/./meltylove/20061018

ここでmeltyloveさんの言われている『主体』の消えなさなんじゃないかと思った。どうかな、全然的外れかもしれないけれど。
そして世界がその<私>という光源によって捉えられる限りは、この世界は他の世界とは重ならないのかもしれないということを、私は「私にしか理解できないこと」と思って書いたのだけど、ここで「理解」という言葉を使うのは、間違ってたかもしれない。

私たちは<他者>にその存在を引き受けてもらい、それによって《私》という存在が確実なものとなり、また、その存在の強度を増していきます。
「「私」のための現代思想」/高田明

私がひっかかってたここの「<他者>に引き受けてもらい」というとこを読んでると、どうも「人は人に忘れられたときに死ぬ」とかそういうのを思い出してしまって、それでも在るものは在るじゃないか、と思って混乱していた。つまり、在るところからはじまってしまっているからそうとしか考えられない。そして「ない」になった後のことは、そのとおり私の世界にはないはずだしそうでなきゃ困る。
しかし例えば、「同じ本」を読んだ感じがすると思ってうれしくなるのも、私にはあきらかことで、それと同時に、私はここからしか世界を捉えられないし、その世界をさらに外側からとらえるものは、ないんじゃないかと思う。そして他の<私>からの世界では、この私はくるりと反転して、束として/影としてあるんだろう。と想像している。

なんかまとまらない。たぶん階層の違う問題を一枚に考えようとするからなんだと思う。けど、どれをわければいいのかがまだわかんないので、ゆっくり考えます。