手が届かない言葉

言葉で表現することと、言葉を理解することは、別のことなのかもしれない。
「会話」が難しいのは、その二つの異なる作業を同時にこなさなければいけないからで、そして、つい「言葉」にばかり気を取られると、その言葉が選ばれるまでの理解や表現、つまり意志のようなものが、自分の外にもあり、それは手の届かないものである、ということを、忘れがちだからだ、と思う。
毎日のように日記を書いていると、たまに、この文字をとおして見える人物は、きっとこれを目にした人それぞれで違うのだろう、ということを思う。
それは会話でもそうなのだけど、言葉だけを切り離して、置いてくるということを私が好んでいる理由の一つは、会話にまとわりつく意志と言葉が重なることへの期待から離れて、どこかに映るその時々に委ねてみたいから、なのかもしれない。
繰り返しながら、この言葉が選ばれるまでの「意志」が伝わらなくても、もしかしたら、理解されることはあり得るのかも、と思う。そしたら、そこにいるのは私じゃないとしても、それはすごいことだ。
……というのは、自分が読むにあたって、誤読を恐れて予防線を張前に、まずは素直な感想でいいんじゃないのかと思ったことへの言い訳でもあるんだけど、それでも、その感想が、読んだ言葉にある意志と重なっていてほしいという気持ちも、やっぱりある。それを知ることができたらいいのになと思う。いつもそこに手が届かない。