夢の中で

思いを巡らせることもなく、好きなものはたくさんあって、と当たり前のように感じているけれど、実はほんとうに好きなものなんて、すごく少ないのかもしれないと思う。好きっていう気持ちの本当を証明することなんてできないし、それは自分自身に対しても、できない。
例えば好きな食べ物とか、そういう「体」が感じてる「気持ち良さ」を「好き」と置き換えることは確実なような気がする。けど、好きって「心」が感じてると(感じている)気持ちの本当って、なんだろう。そしてそれは終わるのか。終わるなら嘘になるのか。
例えば、ずっと好きでいると思ってた人のことも、いつか忘れたりする。…以前はは私も「ずっと」があると信じてたことがあるけど、今はもうその点において自分を信じられない。忘れてよかったんだということもできるし、それを惜しいと思うこともできる。好きにただしさなんてないということもできる。
ただ、その「ずっと好き」を燃料にして動いていると、それがきれたときのショックは大きい。そうだな、例えば宗教でもいいや。信仰心によって、自分を支えてたひとがいるとする(や、宗教ってそういうものかもしれませんが)。でもある日、もしかして自分は自分を支えるために神を信じてるのかもしれない、ということはこの気持ちは、嘘なのかもしれないって、ある日疑ってしまったとする。そのことによって、自分が汚れたと思えばいいのか、目が覚めてよかったと思えばいいのか…その迷いを抜けて、さて「神は死んだ」という心境に至ったとする。それはもう、昼間に提灯掲げて走り回るくらいの衝撃だろう。それまで生活の中心にあったそれを失うということは、世界が真っ白になるようなものだ。
もちろん、そんな「支え」を必要とせずに生きていくこともできる。でもそれを必要とする人もいるし、自覚せずに託している場合もある。世界は往々にしてままならない。齟齬もあれば、魅力が失われ、失望することもあるし、叶わないこともあれば、いなくなることもある。ある。でも真っ白になるのは、自分の中にある矛盾に対処できなくなったときだと思う。それは方法を忘れることだ。
神は死んだ、とは、神がいる/いないではなく、この私が、神を信じられなくなってしまったということが問題なのだ(と思う)。
このへんの気持ちを、私は「自分は良いものじゃない/利己的なものだ」と思うことで、解消できたような気持ちになっていたけど、それもきっと防衛本能みたいなものだ。ときどき、あの真っ白から、引き返していたら、と考えることもある。憧れてるといってもいい。でも、昨日の映画で、そのことの辛さを目の当たりにしたような気がした。
どうしようもなく、私は正気なのだった。たぶん。マジレスしかできない不器用さがうっとうしい。