信じる

「焚書官の日常」さんのこちらの記事(http://d.hatena.ne.jp/./mutronix/20061221/p4)で知った動画を見ました。菊池誠さんが「まん延するニセ科学」というテーマで話をされているもの@NHK
たんたんと、ゲーム脳や水のなんとかがニセ科学である、つまり科学的な根拠は全くないという話が語られる様を見て私も(mutronixさんも書かれているように)これはちょっと感動的だ、と思った。

道徳やしつけの根拠を、科学に求めるのは間違っている。しかしそれをする人が多いのは、その根底に、科学とは様々な問題に対して、白黒はっきりつけるものであるという誤解があるのではないか…? しかし世界は二分法でわけられるほど単純ではないのです。

まったくもって、そのとおりだと思う。
もちろん、信じるのは勝手だと思う。けれど、それをルールのように取り扱い、他人に共有を求める際にまつわる諸々の誤謬、特にそれを疑わなくなってしまったことに伴う傲慢さ、というのはここで語られているニセ科学だけでなく、もっとほかにも、私の中にもある、と思う。

例えば、私が宗教を信仰することに対して感じていた矛盾(id:ichinics:20060801:p3)、というのもそれに近かった、ような気がする(この気分はなかなか自分でも説明しにくいのだけど)。
「ゲームをして欲しくない」ということと「ゲームをすることで悪影響」がある、という言説を信じること。「死んで救われたい」という気もちと「良い行いをすれば天国に行けます」という宗教を信じること。そんな単純な重ね方をすることもまた、危ういのかもしれないけど、それらは「受験合格の願掛けにポテトチップス断ちをしてみる」ことと、実はそんなに変わらないんじゃないのかな、と、思う。
つまり、ルールには理由がある。けど、それを守らないこと、守ったことに対して、罰や見返りを用意するのは自分だよなーと思う。
自分の力の届かない場所にあるもの(それはほとんどかもしれない)に対して、感謝とか願いとか、よくなりたいという希望を持つことと、それに見返りを求めることは少し、でもまったく、違う。その対象はただある。そして、ただ信じてるなぁと思う。
ポテトチップス断ちをして不合格だったらからって、ポテトチップスのせいにしないし、合格したからって他の人にポテトチップス断ちすすめない。ただ、ありがとう何か。という気持ちね。それはあるよね、ということを、michiakiさんのこちらの文章(http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20061220#1166624988)を読みながら考えました。いいこというなと思った。