怒ることって期待することに似ている

昨日「怒る」ということについてぼんやり考えていたのは、友達の女の子が「元彼の働いてる店に遊びに行ったら、そのことを元彼と共通の知人に怒られた」と話していたのがきっかけだった。
これまで話を聞いている限りでも、その知人の人はすこしふしぎなので気にしなくてもいいよと思うのだけど、彼女はわりと真に受けてしまうタイプのようで、けっこうへこんでいた。しかも「たぶん私が怒ったら関係が切れるので怒るに怒れない」という。
自分に置き換えてみると、そのすこしふしぎな人を説得しようとも思えないし、かといってそのSFさんのいうことをいちいち真に受けるのも面倒だ。ちなみに彼女が元彼の店に行くのは、そこが自分の元勤務先であるからで、べつによりを戻したいとかでないことは私も知っている。だから彼女が悩むことなんてないんじゃないかと思ったのだけど。
でも、考えてみたら、数年前の私だったらきっと、彼女と同じように考えこんでしまっていたのかもしれない。というか彼女ほどやさしくないので、むしろ、ムカついていたかもしれない。そして最近、というか結構長いこと、私は怒ってないんじゃないのかなと思ったのだ。
そしてそれは寛容さではなく、無関心さだと思った。
彼女が悩むのは、その知人の人とも仲良くやりたいからだ。その期待が彼女を悩ませるし、たぶん知人の人も、彼女のことを思う気持ちが空回りしているだけなのだと思う。
確かに、悩まないですむこと、怒らないですむことは気楽だ。特に他人とのコミュニケーションにおいて、期待する範囲が狭いほど、摩擦は少なくなる。
例えば昨日、営業職の友人が「社会に出て、利害関係が絡む他人とばかり知り合うと、本音の話とかしない方がうまく回る」という話をしていた。それも、相手に(商売以外の関係を)期待しないということに近いと思う。
でも彼が言っていたのは、「だから、やっぱ社会に出ると友達の大切さとか痛感するよな」という話で。くさいこというなぁ、と思ったのだけど、例えば私がこの人にムカついたとしても、怒るかどうかはわからないけれど、改善しようとはするだろうし、そもそもムカつけるということは、相手の話をきちんと受けるということなのだと思った。そして改善したいという気持ちは、仲直りしたいし、できるだろうなという安心感と期待のもとに成り立っているのだ。
他者との関係だけに限らず、期待するということはエネルギーになる。
そもそも、摩擦がなければ、つるつると滑って先にも進めないじゃないか、ということを考えて、もちろん摩擦は怒りだけではないけれど、怒りだって案外「悪」ではないんじゃないのと思ったのだった。