言語の使用、意味はどこに生まれるのか

「東京猫の散歩と昼寝」さんの「言語について素朴に考える(1)」という文章を興味深く読みました。すごくおもしろかった。まだ続くらしいので、続きを楽しみにするとして、
今日はその記事を読んで思い出した、同じくtokyocatさんの昨年の記事について考えていた。

さてしかし、言葉を使って何か書いたりしていると、論理ばかりでなく、どうももっと別の何かにも強く引きずられているなあと感じることがある。何に引きずられているのか。それを「物語」と呼びたいことがある。
(略)
さてさて。猫やコウモリが「考えたり感じたりしている何か」があると言えるように、私たちが「考えたり感じたりしている本来の何か」があるとしたら、それは言語に変わるとき少しズレを生じるのだろう。言い換えれば、私たちの考え方や感じ方が言語という型枠にハマってしまうということ。でその言語は言語で、論理や物語にハマっているという面白い構図。
http://d.hatena.ne.jp/./tokyocat/20060909#p1

この文章で示されている疑問が、今回の「言語について素朴に考える(1)」につながっているような気がして、おおー、と思った。もちろん、それは私の読者としての視点にすぎないのですが、この文章を読んだ後に私が「自由意志」絡みでずるずると考えていた、「この生に意味をつける言葉が意志なのだとしたら、言語を持たずに生きるとはどういうことなのだろう。/言語なしにどうやって「意志」するのか。」id:ichinics:20060920:p2)という疑問にも、糸口のようなものが見えたように感じられた。
例えば、

言語は現実の世界と直接結びついてはいないのだ。むしろ仮想の世界を作り上げると言ったほうがいい。記号の原理として改めてそれに向き合い、不思議な気がした。これが1つめ。
もう1つ。言語という記号は、インデクスからシンボルへと転じることで対象との結びつきが希薄になった。しかしそれと同時に、記号どうしの結びつきというものが初めて生じた。しかも、その結びつきは複雑であり、記号が働くうえで決定的な役割を果たしている。
http://d.hatena.ne.jp/./tokyocat/20070110#p1

この2点が先に書かれていた「物語」や「論理」に近いのではないかと思う。私の「考えたり感じたりしていること」が〈記号どうしの結びつき〉に引きずられ、〈記号どうしの結びつき〉もまた「複雑かつ厳格」なルールに基づいている。

これを、私の「考えたり感じたりしていること」における重力が「論理」という「結びつき(の法則)」であり、〈記号どうしの結びつき〉によって生まれる「意味」に影響する引力が「物語」である、ととらえることはできないだろうか?
うまく言えないんだけど、思いや考えというものが、言語という枠組みに入れられることによって「制限」されるように、言語もまた、私の思いや考えに意味付けられる…つまり、記号どうしの結びつきというのは、その記号を使う者の歴史(類語辞典のような/仮想の世界?)に左右されるのではないか。
そしてその歴史が「物語」という引力になって、意志を意味にかえていく。

考えていると何十もの入れ子構造に見えてきてくらくらするな。
でも、ここで気になるのは、人間である私が言葉をインデクスとしてのみ使用するとき、そこに意志のようなものはあるのだろうか、ということだ。
母猫が子猫を呼ぶ時、そこには「子猫に来てほしい/子猫に何かを知らせる」のような目的はあるだろうし、それは意志と言えるかもしれない。でも、そこに子猫に対する感情のようなものを見るのは呼び声を「シンボル」としてとらえていることになるのかな。
ただ、動物の交信がインデクスに過ぎないとされるのは、記号同士が結びついて使用されないからなのだろう(と思われる)。だとしたら、インデクスとしての使用をシンボルとして解釈するのは、常に客観である、ということなんだろうか?
その客観には、主体(思いや考えの主として)を客観視するということも含まれているとして、そう考えてみると、やはり「自由意志」というのはなくて、ある、と解釈する客体だけがあるということ? もしかしてこれが前に引っかかってたままの(id:ichinics:20061014:p1)『言語ゲーム』なのかな?

混乱してきたので、tokyocatさんのつづきを楽しみにしつつ、時間をおいてもうちょっと整理して考えたい。

【追記】

ちなみに引っかかっていたのはこの部分です。

しかしながら「主体としての自我」の存在は否定されます。なぜなら、自我とは「『私』という言語ゲーム」の中で発生する「機能」でしかなく、そのとき「主体」とは「『私』という言語ゲームを行っている何か」となるからです。『世界をよくする現代思想」p187-188

「主体としての自我」が否定されるって? と思っていたんだけど「『私』という言語ゲームを行っている何か」と自我(思いや考え)は別、ということか、とか。再読しつつ考えてる最中です。