意味は後からやってくる

「言語の使用はかならず規則を越えていくものだと思います。」

先日(id:ichinics:20070115:p2)、このようなヒントをwoofさんからコメントでいただいて、しばらくそのことについて考えていました。…言葉について考えるのは、タマネギの皮をむくことににている…とかもやもや脱線しつつ、でも、むしろ逆回しで、タマネギの芯から皮が重なっていくところを思い浮かべる方がイメージに近いと思う。永遠のタマネギ。

まず、この前の「1+2= 」という式に3を書きたくなる気持ちというのは、その「+」とか「=」の規則を知っているからだと思う。「なんで3を入れたの?」と問い返されたらいろいろ説明してみることもできるけれど、最終的には「だってそう教えられた/そのように使われているから」と答えるだろうし、そうやって身につけた「規則」だ。
その意味で「+」はまず、インデクスとしてそこにある、といえる(のかな?)。そして、「+」の意味は、その使用法であるだろう。
でもその使用には、「+」という記号が、前後の数を加算するためのものであるという解釈がある。そして、その解釈は、必ずしも共有されているものではないし、常に「そうでなかったこともありえた」という可能性を含む。

少し戻って、最初に考えはじめるきっかけになった「東京猫の散歩と昼寝」さんのインデクスとシンボルの話を思い出してみる。

動物の交信はインデクスにすぎないが、人間の言語はシンボルとして働く。

この箇所を読んだとき、それでは「インデクスとしてしか使わない」という状態はどういうことなのだろうか、と考えてみたのだけど、それはいまだにイメージできないでいる。ただ、

  • 「動物の交信がインデクスに過ぎないとされるのは、記号同士が結びついて使用されないからなのだろう(と思われる)。だとしたら、インデクスとしての使用をシンボルとして解釈するのは、常に客観である、ということなんだろうか?」(id:ichinics:20070113:p1)

この「客観」というのが、つまり後からやってくる「意味」なんじゃないかって、思いはじめている。(たぶんインデクスとしての意味は動詞の「mean」でシンボルの場合は名詞の「meaning」になるような気がするんだけど、この場合は後者 そのまま「指標」「象徴」でよかった)。
親猫が子猫を呼ぶ声がインデクスであるのは、それが「そうでなかったこともありえた」を含まないからなのではないか。
しかし、インデクスとしての記号も、シンボルとして結びつく記号も、その解釈は常に後からやってくる。そして、言葉をシンボルとして使うのが仮にヒトだけなのだとしたら、後からやってくる「客観」を自ら持つのも、もしかしてヒトだけなんじゃないかと思うのだ。つまり、猫の呼び声に、言外の意味はない、のは、それを「思わない」からなんじゃないか。
「言語の使用はかならず規則を越えていくもの」というのは、言語の使用は常に「そうでなかったこともありえた」を含む、ということなんじゃないかと、とりあえず今のところは解釈してみた。そして、「意味」というのは常に、後からやってきて、言語の使用を定着させる/可能性を収束させるもの、なのではないだろうか。
逆に、仮に「+」の意味を説明しようとしたところで、いくら言葉を重ねても、それ以上説明ができなくなる所に突き当たる。それは複数の規則が複雑に絡み合ったシンボルであり、そもそも「その規則を守らなければならないというルールなんてない」からだ。。
その限界がタマネギの完成なんではないかと思う。しかし限界があるということは、その先にも「何かがある」ということを示している。そして、それが独我論を否定するものなんじゃないか、と思ったけども、そういう解釈は安易すぎるのかもしれない。それは過去にあるようだけど、同時に先に、未来に? あるような気がするのだ。
言語の「意味」についてはもうちょっと整理して考えてみたい。

ところでwoofさんのコメントで知った「クワス算」という言葉については、まだ調べられていません。というかgoogleに聞いたら二番目にここが出てくるのは問題だと思った。