言語と自由意志

  • 「言語の使用はかならず規則を越えていくもの」というのは、言語の使用は常に「そうでなかったこともありえた」を含む、ということなんじゃないかと、とりあえず今のところは解釈してみた。そして、「意味」というのは常に、後からやってきて、言語の使用を定着させる/可能性を収束させるもの、なのではないだろうか。(id:ichinics:20070119:p2)

ということを先日考えていたのだけど、ここで『「そうでなかったこともありえた」を含む』と書いたのは、「そうでなかったこともありえたと「感じることができること」を含む」だよなぁと思った。ややこしいけど「後からやってくる」という感覚に近いのは後者だった。そして、だからこそ人は「自由」な意志の元に行動していると感じることができるのだと思う。
たとえば。100という数字が出るまでにどのくらいの計算式のパターンがあるのかわからないですけど(数学全く駄目です)、そのわからなさよりずっと複雑なパターンで人は言葉をマッピングし貯えていて、常に増え続ける情報を整理しながら、今ある局面を実践している。そしていったん通り過ぎ、現れたものについては、ヒトはそれを情報として矯めつ眇めつ、様々に判断することができるので100が出るまでの全てのパターンを描き出すことだって、実は可能だったりするのかもしれない。そして、その特性こそがヒトに意志の存在をほのめかすのだと思うのだけど、そのときすでに、つねに100という数字は越えてしまっているのだ、というのが限界なんじゃないだろうか。次に何が足されるかは知ることができないけれど、それはあらかじめ決められている。ただ、100があった、ということだけはわかる、というような。
そして「言語」もまた、どれだけの言葉があるかはわからないけれど、ある言葉しか使うことができない、という限界はどうしてもある(ような気がする)。
ただ、仮に100までの全ての計算式が並べられたとしても、そのどれを辿って100を越えたのかも、次に加えられる数字が何なのかも、わかることはできないんじゃないだろうか。そして万が一できたとしても、それは過ぎてしまってからだろう。
だから、もし仮に(仮にですよ)「時間が、その中身にあるものに何の影響も与えず繰り返す」ということがあり得たとすれば、全ては永遠に同じ結果を出し続けるような気もする。
ただ、そうすると時間とともに現れた「意味(というか認識)」もゼロに戻ってしまうだろう。ということは、過ぎてしまうからこそ、100にいたる複数のパターンを見いだすこともできるし、シンボルとして使われた言葉の「意味」が現れるのと同じように「今これを選んだ」/「しかしそうでなかったこともありえた」と感じることができる、ということだろうか。そしてその錯覚もまた、過ぎてしまえば計算の結果である、ということ?

精神が脳に干渉するのではなく、脳のある部分が他の部分に干渉し、それが精神状態に反映されるだけなのです。そしてその過程はただの物理現象に過ぎないので、予測不能とは言えど決定論的です。
http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20070125#1169659470

個人的に、自由意志ある、と思いたい気持ちはあるんだけど、michiakiさんのこの文は脳とかよくわかんないながらも、そうだよなぁ、と思ってしまった。
でも今回だらだらと書いたのは、言語関連で考えていたヒトと動物の違い、とされているところに、この自由意志があると思ったりすること、があるのではないか、ということを考えたかったのです。そろそろ整理してみたいなぁ。