「放浪息子」/志村貴子

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

放浪息子 (1) (BEAM COMIX)

放浪息子」が描くのは、女の子の格好をしたい男の子[ニトリくん]と、男の子の格好をしたい女の子[高槻くん]と、その友達の物語。これが、今まで見たことのないような形で、でもきっと少なくない人の、わたしの中にもある拘泥に触れるような物語で、読みながらずっとどきどきしていた。あの、性別が決定されるということに対する戸惑い、とか、恐怖。それは今でもたまに思い出すし、うまくいえないままで、ある。
自分は性差についての話とか、あんまり好きじゃないんだけど、この作品はその部分におおらかに踏み込んでいて、やっぱり志村貴子さんはすごいなぁ、と胸がいっぱいになってしまうのだ。
そして、少年少女のやりとりも、いちいちすばらしい。「青い花」とあわせて読むと、人物の配置が重ねられて面白かったりもするんだけど、今日はとりあえず「性別」について。

見られることで分けられる

女の子の格好がしたい、という欲求は、はたして女の子になりたい、ということと同じなのだろうか。その前に、女の子になりたい、というのは、どういうことなのだろうか。
私は、性別とは、何もつきあう異性の対称としてあるわけではないと思っている。特にこの物語がはじまるのは、小学生時代なので、そこにはまだ、指し示す性欲はおぼろげにしかないからだ。
例えば4巻にでてくるエピソードにこんなのがある。
お姉ちゃんと共同の部屋を使っている修一は、お姉ちゃんの友達が来ると自分が部屋を使えない、ということに対して不満を持っている。そしてある日、その不満をぶつけるのだけど、その時、自分が悲劇のヒロイン気分を味わっていることに意識的なのだ。ロマンチックを求めて家出を試みたりもする!
この心理は女の子特有のものにも思えるけれど、だからといってこのニトリくんが女の子の心理に精通しているわけでもないだろうし、意図してそうふるまっているわけでもない。それは生まれ持った感受性であって、女の子の格好がしたいというのもまた、なんでかよくわからない欲望なのだろう。
だからこの物語で描かれる、女の子の格好がしたいという欲求は、女の子として「見られたい」ということだと思う。
もう一人の主人公である、高槻くんという女の子は「青い花」でいえば、杉本先輩と重ねることができるだろう。ただ先輩の「女の子はめんどくさいよ」という女の子であることへの否定は、巡って彼女が最も女の子的であることを示していたような気がするけれど、そこはとりあえず保留。
ともかく高槻くんもまた、恋愛のこととかよくわからないまま、女の子を押し付けられることに抵抗している。女の子として扱われるということは、女的なものに自分が属してるってことにされることであって、それは精神面ではなく見た目で決まってしまうことだからだ。
つまり二人とも、自分にあらかじめ与えられている性別への抵抗として、異性の服装に惹かれるのだと思う。他人の目線がなければ、そんなのは倒錯でもなんでもない。少なくとも小学生時代はそうだろう。でもここで、恐るべき第二次性徴がやってくる。4巻のおわり、5巻から、彼らは中学生になってしまった。

「女の子ばっか被害者かよ」への共感に似たもの

私がこの漫画を読もうと思ったのは、はてブで知ったこの「負け組日記」さんの文章がきっかけだった。

「女の子の方が肉体的にも精神的にも大人になっていく。」という言葉を思春期の頃に繰り返し繰り返し聞かせられて、僕は敗北感や劣等感を抱き、そして自分の性に対する不当な扱いを受けている気がした。「女の子ばかりが成長に戸惑うのかよ、男の子だって戸惑って苦悩するじゃないか」と言いたくても言えなかった。なぜなら僕は女ではないので、女の子の戸惑いがどれほどのものであるか知ることが出来なかったから。そして、このような事を言おうものなら必ず「男の子の戸惑いがどんなものか説明しろ」と言われる事が目に見えているからだ。女の子の体の変化と異なり、男子の体の変化は性欲と密接に絡む。だからその戸惑いについて述べる事は、自分が抱いている身勝手な願望と日々の絶望について語らなければならず、そんな事を告白する事は恥辱の限りを尽くすのに匹敵する行為と言える。だから僕は、ぐっとその言葉を飲み込んで、釈然としない想いでぶすっとし続けなければならなかった。
http://genki01.cc.hokudai.ac.jp/reo/diary/?date=20051224

もし仮に、女の子の方が肉体的にも精神的にも先に大人になるとしたら、それは性別が体に現れるタイミングの早さによるものなんではないか、と思うけど、それより私がこの文章に惹かれたのは、私はそれについて思春期に繰り返し繰り返し聞かされて、「男の子ばかりが子どもでい続けることを許されるのかよ!」と思っていたからだ。
でも5巻でニトリくんが、「そのうち声変わりして、ヒゲも生えてくるって…」と話す場面を読んで、すごくすごく悲しくなった。「そうしたらもう、女の子の格好が似合わなくなってしまう」という絶望は、なにも女の子の格好をすることだけでなく、男の子にも同じような戸惑いはあるのだということを改めて思い知らせてくれるものだった。
「負け組日記」さんの文章で指摘されているように、女の子の成長にまつわる戸惑いをあつかった作品は多いけれど、確かに男の子の異性への興味というものは得てしてコミカルに、あっけらかんと描かれることが目に付く。ただ(男ではない私は)、そういった作品を読むと、どこかで性別を理由に共感することを拒絶されているような気分になって、うらやましいような、かなしいような気持ちになることがあった。対して女の子の葛藤を描いた作品を読んでも、共感する部分はありつつも、女としての振る舞いを規定されるのは嫌だなとか、女ってめんどくさい、というか、女とか男とかめんどくさい、とか、女の自虐はなんで笑えないのか、とか思っていたのですが*1、そういうのはちゃんと男側にもあるんだってことを(当たり前すぎるのかもしれないけれど)感じて、うれしかった。
そして「放浪息子」は、確かに、与えられる性別について、戸惑いためらう少年少女を平等に、抱きしめるような物語だと思う。自分が何であるか、というのは、自分次第でいい。これは性別についでだけじゃなくて、見られる/区別されるということから、もっと解放されてもいいんじゃないのっていうおおらかな優しさに、わたしはたまらない気持ちになる。

放浪息子(5) (BEAM COMIX)

放浪息子(5) (BEAM COMIX)

*1:このへん→id:ichinics:20050419:p4