自由意志のないシステムとしてあるわたし

自由意志があるのかないのかはまだ考え中だけど、すこし分岐先を考えてみたいので、とりあえず自分の興味がある「わたしに自由意志はない」の方に仮定して(……ってなんかの皮肉みたいだけど。)、私に自由意志は「ない」のに、それがあるように感じられるのは何故だろう、ということをこの前考えて書いた(id:ichinics:20070126:p2)。

ただ、ここで「自由意志がない」、と考えているのは、「他の自由意志を持った何かに操られている」ということではないです。アインシュタインの言った「神はサイコロを振らない」っていう言葉ってどういう意味だったのかは勉強不足でまだわかんないんだけど、神という存在があるとしてもそれは「サイコロを振らない」、というか、そもそもゲームに参加していない、と思う。
だから、私が私の自由意志を感じることもまた、偶然の足取りによるものであり、偶然のはじまりとしてゲームを作ったのが「神」だとしても、とりあえあず私は偶然の開く場所にいて、漠然とした自由意志を感じている。

しかし「自由意志」があってもなくても、そんなの私以外から見れば同じこと、なのだと思う。
それぞれ「自分自身」しか知らないのだから、他者(ヒト以外も含む)を知るということは、

  • 相手がどのような言語システム/思考方法を利用している相手であるのか

ということを、

  • 「自分自身」というシステムに照らし合わせて判断する

ということで、それはきっとほとんど誤謬だ。だって「自分自身」システムだって把握してないんだから。

だからヒトはそれぞれ自動的に現象を解析しマッピングし続けるシステムであると同時に、使い道のわからない道具であると、今の私は考える。
地球にとって有害だとか、俺にとって無害だとか、国にとって有用なのでこれこれしてくださいとか、まああるとしても、それは側面でしかない。このシステムの動作記録がそのシステムの存在に「意味」を見いだすとすれば、それは振り返ってみた自分だけに理解できるものだろう。けれど、それを振り返ったときにはもう続きはないし、たぶんシステムも更新されない、だからそっちはとりあえず先にまかせて、今は今を見ることしかできない。ただそれは、感覚を受け取る者として自律したシステムであるということでもあって、意志をもった何者かの為の道具である機械とは違うとこかもなぁと思いますし、そこが気に入っているので、「機械になっちゃいたいのに*1」とはあんまり思わなくなったな。遠回しすぎる?

*1:「やっつけ仕事」