自由意志と「我あり故に我思う」

休日に、さて出かけよう、と思う。友だちとどこかへ遊びにいこうか、それとも1人で映画でも見ようか。考えて、映画にする。で、メッチャつまらない。1番、「あーあ、友だちと遊んでたほうが良かったなぁ」。まぁ、帰るか、と思うと急にすっげー土砂降りでズブ濡れに。2番、「あーあ、こんなじゃ出かけなければよかった…」
で、ぼくの言いたいのは、1番はアリかも知れないけど2番はナシだよな、ということです。家にいた時点では「今日は出かけない」ということを一度も考えていないわけです。その選択肢は、存在しなかった。しかし、「出かけなければよかった」と、言葉を使うことによって、未来の時点から語れてしまう。そのせいで、そういう行動を取ることもできたはずなのだ、というように錯覚してしまうのです。でもそれは過去の改変/捏造でしょう、とぼくは思う。
「で、みちアキはどうするの?」 − 自由意志の幻が生まれるところ

面白かった。特に下に引用した部分がとてもわかりやすいたとえだと思った。
で、私もちょっと考えてみたんですが、私にはどうも、1番も2番もナシに思える。つまり、その休日に選ぶ選択肢は「さて出かけよう」の時点でもう決定されているような気がする。振り返って「出かけない」選択肢もあったのだと「言葉で思う」ことで、次の休日には天気予報を調べる、といったことがおこるかもしれないけれど(そして、だからこそ「思うことには意味がある」と思うけれど)、その休日の行動は、その瞬間までにもう「予測不能ではあれど決定されている」んじゃないだろうか。

最近、「我思う故に我あり」は、「我あり故に我思う」なんじゃないの、と思うようになっています。
「我あり故に我思う」なんじゃないの、というのは以前読んだmichiakiさんが書かれていたことで(http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20050926#1127745320)、それからずっと気になってたことなんですが、その時の私はこう書いてた。

  • 「ある」ということを知らないということで、はじめて「ない」だけが存在するんじゃないだろうか。(id:ichinics:20051009:p3)

いいたいことはわかるけど(書いたの自分だし)、自分でもわかんないと書いてるように、「思考」と「感覚」がごっちゃになってるなぁと思った。こうやって自分の考えが更新されてることに気付けるのはちょっと面白い。
ともかく、「我」が「思う」と感じるのは、「我がある」からだ。そして今ちょっと、その「我」を言語といってもいいかもしれないって考えています。言葉があるから、自由意志があるように感じる。過去を未来から語ることもできる。しかし、過去は未来から語られた時点で、複数あるように見えるようで、実は定着してしまう。
上に引用したエントリの続きに、こうあります。

今度は逆に「家にいること」を後から語ることを考えてみます。「買い物にでも行けばよかったんだけど、家にいた」「遊びには行かないで家にいた」「外に行けば出会いがあったのかもしれないけど家にいた」「知事選には立候補しないで家にいた」。でもこれ、この人をビデオで撮ったらどうなるか考えて見ればわかります。全部同じ、「ただ、家にいる人」が映ってるだけです。

ここで、何が定着しているのかというと、それが「意味」かなぁって気がしている。例えば、一番上の引用部分では、土砂降りでズブ濡れになるまでは「出かけなければよかった」という思いもでてこないわけで、ここで初めて「出かけたら雨でズブ濡れになった」自分が登場する。因果関係はないのに、あるように、たとえば「今日はついてない」みたいに感じることができてしまう。でもこの後に、雨を避けて喫茶店に入ったら旧友に再会した、なんてことがあって「出かけてよかった」になる可能性だってあるわけです。家に帰ってくるまでは。
このように、何かを思ってしまうのは、「言語」があるからこそだよなぁ、と考えているわけですが、だとすると「言語」を使う「私」ってなんなのか。そこがちょっとややこしい。
私がある、ゆえに思うことができる。そして思うことができることによって私があるということが「わかる」という感じ? かなと思うんだけど、「ある」だけじゃ「思う」はうまれないような気もする。
ともかく、思うことのできる「我」っていうのは、もしかして言語のあたりに、由来を探せるのかもしれないなと、考えてるのをざっと出してみて、また考える。