森達也×斎藤美奈子トークショウ@青山ブックセンター

森さんが話をしてるところを生で見てみたいなと思って行ってきた。
最後に、司会の(編集者の)人が「帰ってブログに記事を書くひとは〜」みたいなことを何かいっていて、それでも書くのってなんか申し訳ないというか、そういうことをわざわざいうんだ、って、ちょっとびっくりした。
で、どうしよっかなと思ったんですが。やっぱり「個人的な」記録として、書いておこうかなと思う。
今日のトークショーの中で、最も印象に残ったのは、

『個人的には、とか、いちいち付け加えてしまうのは、「私の意見」の他に「みんなの意見」があるからで、そのように皆が二重規範、ダブルスタンダードでいるのは不健康なのでは』(注:記憶書きです)

という話だった。たぶん斎藤美奈子さんの発言だったと思う。
私も上に「個人的には」と付け加えてしまったけれど、普段からこの前置きはよく使う。講演のテーマとはずれるけれど、これはネット上に日記やら感想をあげるにおいては、ちょっと難しい問題だ。で、わざわざ「ブログに〜」と釘をさされるのだとしたら(今日のはそこまでの意図はなかったのかもしれないけれど)、それは「これは私の意見であって、何か正しい「情報」ではないですよ」と前置きしておくことで応えたことにはならないだろうか。
このプライベート感とおおやけ感の境って難しいな。

と、前置きが長くなりましたが、今日のトークショーはとても面白かったです。
斎藤美奈子さんの本は実は読んだことなかったんですが、話を聞いていて楽しい、魅力的な人だなと思った。ので読んでみたい。
上の話の続きで、斎藤さんは『教室では1つの正しい答えを求められる。そして求められる答えと自分の心にあることを、「本音と建前」としてバランスをとる能力を身に付けていくのが日本の教育なのでは』と解説していて、興味深いなと思う。確かに、常に自分の意見の他に「建前」やらを意識して設定しておかなくては、という「空気」あって、それはすごく強い圧力でもある。しかし、例えばメディアという「大きな意見」を察することよりもまず、それもまた一つの意見/側面であるということ。それをふまえておくことの大切さこそが、森達也さんが長年語り続けていることだ。
だからつい、これも一つの意見ですよ、という意味で「個人的には」と言ってしまうのだけど、そこには矛盾があるだろうか? ちょっと考えてみたい。
その話から少しさかのぼって、「日本のメディアは家族主義、疑似家族としての規制がある」というようなことを話もあった。そして、この家族主義、他者の感情をおもんばかるべき、という空気もまた建前のひとつなのだろうと思う。
これもまた、物事を是非で二分化するのではなく、ちょっと立ち止まって考えることの大切さの話なんだなと感じた。
他にも、時事問題についていろいろ興味深い話が聞けたのだけど、それは自分の中でもうちょっと消化して考えてみたい。「日本国憲法」はまだ読んでる途中なので、それもいずれ。

ところで、今日は会場に「日本国憲法」と「それってどうなの主義」の装幀をされたコズフィッシュの祖父江さんがいらしていた。講演が終わってから誰かと話しているところを通りかかったのだけど、なんだかすてきなひとだったなぁ。