認識する、という行動

shokou5さんからトラックバックいただいて、コメントで質問してみようかなと思ったのですが、まとまらないのでとりあえずここに書く。
とはいえ、私は、自分の考えていることが何の話なのかよくわかってない。もしかしたら、ごっちゃにするな、と怒られるようなことしてるのかもなぁというのがちょっと心配で、だから、何を言っても机上の空論、多く見積もっても、私だけが実感をもって感じられることだと思ってます、という言い訳を最初にしときたい。まだ手をかけるとこ探してる段階です、ということでゆるされたい。
ともかく、私が気になったのはこの部分でした。

計算をチョイスしている際(delay period)に足し算/引き算を担っている部位(MPFCa)と、実際の計算を行っている際(execution period)に足し算/引き算の情報を担っている部位(MPFCp)が異なっていることからも、「意図」と「実行」の分離ははっきりと示されている。またこの分布から脳の内側の前方から後方に向かって、意図→実行というグラデーションが描ける、ということも先行研究と一致して示された。
今回の結果は、「意図」とは事後の解釈によって行動に対して与えられる「理由」でしかない、と考えるアンスコムに対するはっきりした反証となるのではないだろうか。
冗談を休み休み言いたい。− 「脳の中の意図」

shokou5さんが言及されている実験内容は、たぶん、「足し算or引き算どちらかを選べ」というお題が最初に与えられた状況で、数字が提示され、あらかじめ決定した意志に従う様子を証明(?)するものなのだと思う(ちょっと自信ない)。そして、その(計算のための)数字が提示される前から、前頭前野に「意志」が表象されている……簡単にいうと脳が準備している、ということ、かな?
正確な意味合いはshokou5さんの文章を参照していただきたいのですが、「この時、被験者は「足し算」か「引き算」か、決めることができる」というのが意志(or意図)だとして、足し算か引き算か「決めた」、と被験者が認識するより前に、それが決まってるっていう話ではないのだろうか。
私はアンスコムという人を知らないのですが*1、その選択自体が「行動」であるとするなら、やはり「意志」は行動の「理由」なんじゃないだろうか…。「理由」というよりは、意味というか。意図すること、意志することの言語化(具体化)が、行動(決定)なんじゃないか……と思った。
もちろん、このへんの疑問にはshokou5さんも触れられていた。

今回注目している脳活動は、おそらく、実際の足し算/引き算のチョイスが意識に上っている段階のものだ。では、被験者が実際に意識的にチョイスを行う前の脳活動はどうなっているのだろう? “select” の指示が出る前から、被験者の行動は脳内で「決定」されているのでは? これは恐らく正しく、恐らく間違っている。実際の行動の因果を辿っていけば「意図」はどんどん時間的に空間的に分散してしまう。

今読んでいる「心の社会」から自由意志について書いてあるところ*2をひいても、やはり

おそらくは、「自分の判断は、自分でもわからない心の中の力によって決められた」のだ、と言ってしまったほうが正直だろうが、何かほかのことによってコントロールされていると感じるのは、誰にとっても嫌なものなのである。
「心の社会」p502

と書いてある。うん、まあね、そうだよなぁって最近は思ってる。でも、ですよ。私は私の意志によって私の行動を決定できる、というのが正しくないにしても、そう感じることのできる心の動きは残るわけです。そして、そう感じる心の動きもまた、コントロール、されているとする。
こう考えると勝ち目のない戦いのような気もしますが、そのコントロール作業自体が、「私」という視点がなければ、あらわれないものでもあるわけですよね。
いやいや、もし全ての因果をマッピングできれば「私」の視点を分割することもできる?
かもしれない。
でもそれは果たして「私」の続きなんだろうか…って、この(よくでてくる)疑問の意味するところが、やっと分かりかけてきた気がする。

*1:ちょっと検索してみたところ、エリザベス・アンスコムというのがその人なのだと思う。分析哲学者で、ヴィトゲンシュタイン「探求」編纂に携わったことで有名。とのこと。

*2:ほとんどラストだ/もちろんまだそこまで到達してなくて先に読んじゃったんだけど