読書、とか

あり得ることではないだろうか(あり得ないことではないように思う)、自分が感じたいと思っていた感覚から、自分がそうありたいと思っていた人間から、いつも自分を隔てていた境界を、いつの間にか渡っていたということは。あり得ないことではないような気はする、このキッチンで、またとないほどありきたりのこの瞬間に、はっきりとは捉えがたいけれどもしかし根本的な変身をわたしが経験したということが。わたしは自分自身に追いついたのだ。
めぐりあう時間たち」p101

自分自身、って何だろ、と二の足を踏んでしまう私でも、舞台に上がればつい演技をしてしまう。些細なものであれ、これはわたしの本当の気持ちではない、と思いながら、何かを、わかったような顔して話しているこれは誰だろう。
この良い天気、沈丁花のにおい、ご飯を食べる約束、充実した読書。これがすてきでなくて、ほかに何がある? と思った次の瞬間には、たとえこれがすてきでも、最高ではないことを思い出す。
自分がそうありたいと思っていた人間/感覚と、自分を隔てている境界を渡る、ということは、つまり、すべてを忘れるということなのかもしれない。
でも、きっと最高である必要はない。ただ、常に今目の前にあるものだけを、受け取れればいいのにと思う。追い付いたら、きっと終わる。ということはつまり、自分自身に追い付くということは、自分の意味を、知ってしまうということなのだろうか。とか。
めぐりあう時間たち」はとても面白い本です。映画見てないんだけど、どうなのかなぁ。とか。
仕事が忙しくなってきて、なかなか映画見にいけないのはくやしいなぁ、とか。
今日は考えてた。